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とりあえず書きたいことを。

むしゃくしゃして、夜中にすしざんまいに行った

自分の思考や行動の至らなさを指摘され、またそれに対して一定程度の認知があった状態だったことが重なり、やるせなさとつらさと得体のしれない静かな怒りのようなものを抱えた金曜日だった。

ぐるぐる考えすぎたおかげで、通常夕飯を食べる時間帯になっても食欲らしい食欲は湧いてこなかった。代わりに、缶ビールとハイボールを流し込んでいた。

当然、酔いが回るのは早い。酔いながら騎士団長殺しを読んでいた。相変わらず、途中から村上春樹ワールドが展開されてしまってわけがわからなくなってきてしまった。ただ、現実のわからなさよりは心地よいわからなさだった。解決しなくてはならない類のわからなさではなかったからかもしれない。小説はどこまでいっても自分の話ではない。

 

ページ数が残り少なくなってきた頃、お腹が空いてきた。

時計を見ると23時30分を過ぎたところだった。いつもならば、夜中に食べることへの罪悪感からこのまま何も食べないことを選ぶ、そんな時間だった。

けれどどうしても寿司を食べたくなってきた。

近所に気軽に入れる寿司屋はなく、隣の駅近辺まで行かないとありつけない。

ましてやこんな時間にやっている寿司屋など、普通に考えれば無い。

 

ひとり自宅で酒を煽り、鬱々と終了を迎えようとする金曜日はいまの自分にとっては少し耐え難かった。こんな状態で土曜日を素直に迎えることは到底できそうにない。

ふとそこで、すしざんまいを思い出した。そういえば24時間営業だったような…

ググると24時間営業と書いてある。距離は少し遠い。歩いて15分ぐらいはかかる。少し悩んだが、何かを変えてみたくて家を出た。時計は24時に差し掛かるところだった。

 

向かう途中に出てくる店には一切目をくれなかった。寿司を食べたいという純粋な気持ちだけが歩を進めた。

キャバクラの入る隣のビルに、すしざんまいはあった。ピンクの看板とトレードマークの手を広げたポーズはためらいをなくしてくれた。店に入ると夜中にかかわらず、店員の威勢のよい声で出迎えてくれた。

 

野暮なことを言うと、すしざんまいは高い。というか寿司は基本的に高い。僕ぐらいの収入だと週に何度も気軽に入れる店ではない。注文表の値段に一瞬ひるんだが、既にアルコールに侵され正常に足し算ができる状態ではなかった。もとより、繰り上がり繰り下がりの計算が苦手すぎる。394円や148円みたいな数字を列挙されても瞬時に計算できない。気にすることが損だし、今日はやるせなさに押しつぶされていたので一切気にしないことにした。

店内は、24時を周っているというのに空いている席があまりなかった。

カウンターでスーツを着た年頃のあまり変わらなそうな男性が、タバコを吸いながら瓶ビールを飲んでいる姿に勝手に共感してしまった。とりあえず瓶ビールを注文した。

寿司は、白身を中心に普段あまり頼まないカニ味噌軍艦なんかも頼んでみた。お通しが普通に美味しすぎておかわりが欲しいほどだった。

運ばれてきた寿司は、規則正しく並べられこちらの様子を伺っていた。種類を楽しみたい気持ちから一貫ずつ頼んでいた。寿司は相棒がいない状況に少し戸惑っていた。僕は取りやすい位置にある、一番右に置いてあった寿司から手をつけた。

 

伝票を取り、会計を済ませる。ひとりの夕飯にしては高かった。気にしないふりをして、クレジットカードを取り出した。

時刻は25時を周っていた。どうしようもない金曜日は終わっていた。あと何回こんな気持ちになるのだろうか。天気予報アプリに表示されている気温よりも、寒さを感じる帰り道だった。自分の機嫌を上手に取れるようになるには、あとどれくらい大人にならないといけないのだろうか。

村上春樹の文体と描写、騎士団長殺しを読んでいて思ったこと

ここ1年か2年ぐらい、村上春樹をよく読んでいる。

小説に限らず、「翻訳教室」や「本当の翻訳の話をしよう」のようなアンソロジー的な本にも手を出している。たまに買うポパイに、Tシャツに関するコラムも書かれておりこれも結構楽しみにしている。たしか少し前のWIREDの雑誌版にも記事があった。ここまでいろいろなものを読んでいると、けっこうなファンといえる気がする。

 

最近は騎士団長殺しを読み始めた。これもいつもと同じような雰囲気、書き方なのだが何か違う空気を感じている。

何が違うのか、と思ったときにたぶん文体が変わったという仮説を持っている。

ここが明らかに違う、と適当な箇所を引用して証明したいのだけれどちょっと面倒なので気分が乗ったら書いてみようと思う。

 

本当に雰囲気というか空気、主人公の語り口が微妙に変わっていると思う。

羊をめぐる冒険の僕と騎士団長殺しの僕は何かが違う。表現力がなさすぎて何も説得力がない。考察もしていない。

 

ただ、この違いを感じたときに思ったことは年を重ねて変化を付けられる奥の深さだ。

彼はもう70歳で、だからといって変化ができないとレッテルを貼りたいわけではないのだけれど、僕の周りの人を見渡してみると変化を付けることは加齢とともに難易度が段違いに高くなる。

たぶん日々の生活と思考に何か変化を付けて、それをアウトプットに止揚しているのだと思うとバケモノだなと。もし何も意識していないのだとすると、それはそれでバケモノ。

こんな適当な読者にも、変化を感じさせるぐらいに滲み出ている変化。まだまだ筆を置いてほしくない人だなとつくづく思う。

2年間開発に携わったシステムがリリースされてわかったこと

 先日、参加してから2年経ったシステムリプレースプロジェクトのリリースが行われた。システムを切り替えて終わり、というわけはなく1週間サポート担当として、ユーザーの近くで問い合わせを受けていた。これは、そのときに気づいたことをメモしたものになる。技術的な話よりも、UX的な話が主となる。

 

 前提として、今回のプロジェクトは以下の特徴をもつ。

  • 企画段階から数えて約4年かかった
  • 社内向け業務基幹システムのリプレース
  • このシステムが無いと、業務が全く進められない文字通りの基幹システム

 

 まず、レスポンスなどのパフォーマンスはユーザーにとってのストレス要因として一番大きいということ。

パフォーマンスの低下は、その理由を知っていたとしても「はいそうですか」で納得できるものではなく仮に他の要素が前と比べて良くなっていたとしても、そんなの関係なくダメなシステムと烙印を押されてしまう。本当に届けたかった価値を感じてもらう土俵にすら立てない。何を今更話。

 

 次に、いままでの操作感と強く比較しているが故の話をよく聞いた。前のシステムよりも導線や操作ステップは改善しているはずなのに、同じ操作をするのに必要なクリックが多くなったなどの意見を聞き、デザインの敗北あるいはUXを検討し尽くせていなかったのかと思い少しへこんだ。

正直なところ、自分がプロジェクトに入った段階ではデザインやUXの方向性は固まっており、この点を改善できる手立てはなかったと言うことはできる。それでも設計・開発のなかで考え尽くせていなかったことと同義であるし、テストでも気づかなかったことにへこんだ。これがあるべき仕様なんだと叫んでも、ユーザーにとってはそんなことは関係ないし、これで生産性が下がったら意味はない。

 

 最後に、ユーザーはシステムを触っているときは無思考に近いということ。

これはリテラシーがどうとか、ユーザーに対する文句では全くなくて、自分も同じなのにリリースするまでは気づくことも考えることもしなかった、本当に目から鱗が落ちた感覚だった。

よく見ればわかることや、2秒ぐらい試行錯誤したらわかりそうなことを何度か質問受け、それでわかった。ユーザーは1秒以下で判断をしているし、普段使っているスマホアプリの操作性に慣れるとギャップがあるということなのだと思う。

自分の普段の行動を振り返ってみても、あまり考えずにアプリを触っているしそれでも特に問題なく操作できていることを考えると、広く世の中に出ているサービスの完成度の高さに改めて尊敬の念を抱いた。直感的に使えるようにすることの大切さを痛感した。

 

 やはり早い段階でこまめにユーザーに触ってもらうこと、それが大事なのだと思う。それはアジャイルとかそういう手法の話だけではない。半永久的に改善をしていくシステムなのだから、どんどん実際のレベル感で触ってもらう必要がある。一方で、最低限の機能開発とバグ修正を行いながら対応優先順位を付け、進捗させることはなかなかに大変ではあるものの…

書き上げることとメタファーの話

最近小説をよく読んでいる。ここ1,2ヶ月の話だ。読んでいるのは主に村上春樹で、派生して外国文学にも手を出し始めた。あと、これは別でブログを書くかもしれないけど、都内の個人書店に行ってみたり、今まで見向きもしなかったリトルプレス的な本や雑誌も買っている。読書好きが本遊びを知り始めるとお金が飛んでいくことがよくわかった。だいたいの趣味はそういうものだ。

 

村上春樹はいま70歳で、年齢の高さにすごく驚いた。本人が若い頃の時代を舞台にした小説が多いからか、勝手に60歳ぐらいだと思っていた(なんなら60歳以下かと)。作品数も多いし、"1980年代"という言葉がよく出てくるのだから少し考えればそんなに若いはずがない。5年後ぐらいにもう執筆しない宣言をされても納得する年齢だ。そう思うと早く読まなくちゃという焦りが出てくるのだけれど、別にいつ読もうが読まなくてはならない総量は変わらないからちょっと落ち着いて読むことにした。

 

創作活動でおそらく一番大変なのは、やりきることだと思う。納期はあってないようなものであるし、自分がいま取り組んでいることは世の中から基本的には求められていない。契約とか結んでいない限りは。そうなると、続ける動機(=やりきること)は全て内に依る。

小説家が書き上げているという事実は質の高さとは全く別軸で、それだけで評価してあげたいぐらいだ。ちょうど一週間前に大学の友人と飲んだときに、彼がやっているバイトが書評を書くというもので、同じことを話した。物語の骨子を決め、一定のレベルで細部にこだわり、表現に工夫を凝らし、結論までもっていく。日本語だから誰でも書けるだろwっていう意識だと絶対に書けない。小説家に対して小さなリスペクトを持てる人間でありたい。

 

"日本語なら誰でも書ける"が、通用しないのがメタファーである。喜怒哀楽をそのまま書いても伝わるのだけれど、それではあまりに味気ない。レポート然とした文の塊が出来上がるだけで、そんなものは読みたくない。逆に小説だと読んでも意味がわからないのかもしれない。

小説を読んでいると、メタファーがそこかしこに散りばめられていることに気づく。昔から気づいていたはずだけれど、こんなに比喩、隠喩を使って構成していたとは意識したことがなかった。これも自分で書いてみようと思うと、なかなかうまくいかない。なかなかどころか、全く書けなくても不思議ではない。一種の訓練が必要なのだと思う。このことに気づき、意識すると小説家リスペクトレベルが上がる。このレベルはいま作った。

例えば主人公の不安な気持ちを、空の色や風の様子、空気感や猫の動作などでそれとなく伝える文章が書けますか?ということ。僕は全く書けないし、将来的にも書ける気がしない。自分の時間を100%つぎ込み(しかも5年間ぐらい)、それでようやくスタートラインに立てるんじゃないかな…。

 

とにかく、30歳で小説書こうと思い立ち半年で書き上げて新人賞を獲るっていうのは稀代の化物。これからも一篇でも多く、文章を読ませてほしいです。

カフェでジンジャーエールを頼めるようになったら大人だと思う

気づけばコーヒーも紅茶も飲めるようになっていた。紅茶はお茶の延長だから、飲めるようになる理屈はわかる。でもコーヒーはどうだ?別に甘くないし、のどごしよく飲めるかというとそんなことはない。冷静に考えたらコーラのほうがうまい。

 

それでもカフェに行くとコーヒーを頼む。夏だったらアイスカフェラテ。のどを湿らす程度に口に含み、飲む。カップを持ち上げたり置いたりする所作や、必要以上に甘くしないカフェラテを飲む姿に大人の余裕を垣間見た。早く大人の仲間入りをしたくて、カフェに行ってはコーヒーを頼んだ。

 

2年ぐらい前から、メニューにソフトドリンクがあることに気づいた。正確には、ソフトドリンクを置いているカフェがあることに気づいたのだ。じつはこれと同じようなことを20歳前後のときにもやっている。居酒屋にソフトドリンクを置いていることに気づいたときのことだ。思い込みは怖い。

 

はじめは、なんでカフェに来てまでソフトドリンクを頼むのか、不思議でならなかった。コンビニで500ml買ったほうが断然安い。いや、コーヒーもコンビニのほうが安いけど、カフェというのは空間を楽しむとか場所の提供という側面もあるから…と考えたところで衝撃の事実にぶち当たった。空間とか場所とか言い出したら、飲み物それ自体に価値はないということに。

 

それ以来、メニューの後ろに追いやられているソフトドリンクが気になって仕方がなくなった。

でも頼まなかった。なぜコーラに450円も払わなくてはいけないのか。コンビニでペットボトル3本買える。1.5L。ここではせいぜい350ml。差は歴然。場は厳然。

 

ジンジャーエールという飲み物がある。カナダドライが出しているものと、ウィルキンソンが出しているもの。大きく分けてこの2種類。味に違いがあり、俗に前者が甘口、後者が辛口と分類される。ファミレスのドリンクバーやコンビニで見かけるもののほとんどが甘口、つまりカナダドライのほうだ。ウィルキンソンはちょっといいコンビニ(成城石井とか)やちょっと雰囲気のいい飲み屋で飲める。そんな立ち位置の違いだ。

要するに、ウィルキンソンはどこにでもある飲み物ではない。

 

さて、カフェでソフトドリンクの話だが、よくよくメニューを見てみるとジンジャーエール(辛口)と書かれていた。全部のカフェがそうではないはずだが、僕がときどき利用するカフェではそうだった。上述したように、辛口は出会える確率が低い。そのくせ辛口のほうが美味しい。

ここで葛藤が生まれた。

カフェという大人の場でソフトドリンクという子供の飲み物を頼むこと、一方でなかなか飲めないウィルキンソンジンジャーエールをここなら飲めるということ。コーヒーならゆっくり飲めるが、ジンジャーエールだと秒で飲んでしまうこと…

 

ひとしきり考えた結果、ジンジャーエールを頼むことにした。

なぜ頼んだか?それは、コーヒーを難なく飲めるがあえて違う飲み物を選択することが、それこそが大人の余裕なのではないか、そう思ったからだ。

9割の客がコーヒーもしくはコーヒーに類する飲み物を飲んでいるなか、ジンジャーエールを飲む。その超然とした選択は、自分に芯がないと絶対にできない。若造は、雰囲気に飲まれエスプレッソを頼むはめになる、飲めないのに。ここでジンジャーエールを頼むやつは、エスプレッソだって飲める、モカだろうが紅茶だろうが問題ない。あえて、カフェという空間で、炭酸飲料を飲む。サイレントマジョリティでない、自分を持った大人になりたい。そう思って毅然とした態度で頼んだ。カフェで飲むジンジャーエールは、心なしか炭酸が強い気がした。洗礼だったのかもしれない。

 

隣のテーブルの子供が、炭酸を飲んでいる僕に気づきメニューをひっくり返しコーラを頼んだので、ソフトドリンクを飲んでいるやつ=子供という画が出来上がってしまった。僕は秒でジンジャーエールを飲んだ。