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コードを書くつもりだったんです本当は。

ITプロジェクトに参加してはじめてわかったこと2選

はじめに

ITプロジェクトやソフトウェア開発(システム開発)をやったことがない筆者が、約1年間ITプロジェクトに参加してみて気づいたことをまとめておく。

以下に書くことは経験者にとっては当たり前だが、おそらく未経験者にとっては少なからず共感できるものだと思う。

 

前提

話の軸は何なのか?は大事なので目線合わせのために。

  • 事業会社の業務システム刷新プロジェクト
  • 開発工程はウォーターフォール
  • 僕の立ち位置は事業会社の情報システム部(ユーザー側)
  • 設計・開発はベンダーの請負
  • 参加したタイミングは設計フェーズ
  • 現在はテストフェーズ

 

はじめてわかったこと1つめ

テストをめちゃくちゃやるということ。

ウォーターフォールのV字モデルを勉強したときに、

「テスト多くね…よくそんなにやることがあるな…」とぶっちゃけ思っていました。

というのも、設計段階で何度もレビューしベンダーさんからのQ&Aを大量にさばいていたことを考えると、あとは頑張って実装してもらえれば完璧じゃないにしてもそこそこのものができると思っていました。

つまり、テストをいっぱいやらなくても期待通りの動きをしてくれるものが出来上がると思い込んでいたということです。

また、自動車のテストや医薬品のテストなどはしっかりやらないとダメだと直感的に理解できていたのですが、ソフトウェア開発のテストはいままで見たことがないので想像しにくかったというのもあります。各社の品質アピールのために実際のテストを流すTVCMは、素人にもその重要性を訴求できているということですね。

 

話を戻すと、「テストそんなにやる必要ある?w」と悠長なことを思っていましたが実際にテストを始めると、わんさか出てくるバグにまず驚きました。あれだけ実装の手前でいろいろ頑張ったのに、こういうものなのかーというのが率直な感想でした(品質に対する批判ではないです)。

実装と想定していた仕様により実現しようとしていた機能に乖離が出る、など作ってみるまでわかったもんじゃないなという学びもありました。

 

はじめてわかったこと2つめ

データベースはすごい大事なんだということ。

開発の経験がないとこの感覚は理解しにくいかなと思います。

バリバリコード書いていくことが開発だと思っていたので、

「データベースってそんなに気にする必要ある?wサクッとテーブル追加したり、カラム増やしたらええやんけ」などと心の中で思っていました。

でも実際はめちゃくちゃ気にする必要があって、なんならデータベースが実装の方針を決めかねないです(ちょっと誇張した)。

誇張はしましたが、僕が参加しているプロジェクトにおいては一旦データベースの構造を勉強することで設計の理解が深まりました。

システムはものすごい雑にいうと、データベースに入っている情報を組み合わせて使っている人に渡してあげる処理がほとんどです。そう考えると、データベースとは何か?どうやって情報を抽出しているの?ということを押さえることで、設計の意図が明確になりやすいです。

可能なら自分で簡単なSQLを書いて、欲しい情報を抽出する経験をするとより良いです。データベースに入っている情報を全部取ってくるselect文だけでも十分です。

 

おわりに

ウォーターフォールシステム開発をしていると、実際のモノが出来上がるまでに時差がありそれが未経験者にとってITプロジェクトは難しいと思われてしまう理由のひとつだと思っています。テストなんかはまさにモノを触ってみないとその重要性がわからないですし、データベースについては経験者にとってはあまりにも当たり前に大事なので未経験者との認識のズレが起こりえそうなところだと思います。

自分自身、そもそもどう思っていたっけ?ということを忘れないようにしたいものですね。

意思決定を助けるサービスと意思決定ができない人間の難しさについて

最近、意思決定を助けるサービス、あるいは無思考型サービスなどと呼ばれるwebサービスをよく見かけるようになった。

献立アプリのタベリーや旅行プラン提案サービスであるズボラ旅、Travel Nowやペコッター、購入のハードルを下げる(=いま手に入れられるようにする)ことも意思決定を助けると捉えれば、zozoのツケ払いもこれらの仲間と言えるかもしれない。

いずれもユーザーが欲しがっていた体験を創り出しており、同じ人間なのに着想と実行に移せる優秀な人とはこのことか〜と、驚きと羨ましさと悔しさが入り混じった感情がいつも襲ってくる。どれも最高なので絶対成功するしめちゃくちゃ応援している。向こうからしたらお前誰やねんという感じであろうが…笑

 

これらのサービスに共通する点は、できるけどうまくできないことをうまくできたと思わせてくれる、ということではないかなと個人的に思っている。

例えば、毎日の献立を考えること自体はできる。が、時間的な制約やバランスの取れた食事を考えること、好き嫌いや冷蔵庫にあるもので作らないといけないということが重なると急に考えることの難易度が上がる。しかも献立に関してはほぼ毎日、下手すると一日三回も考えなくてはいけない。

また、旅行についても行き先を考えることや航空券の比較なんかはできることだと思う。だがこれも一方で、漠然とどこか行きたいなぁという気持ちを言語化することの難しさや、比較サイトでひたすら航空券を探し続けること、見つけ出したホテルが本当に綺麗なのか心配することはストレスがかかるし、失敗したらそこそこのお金がかかっているためへこむと思う。

上述したサービスは、これら負の部分をうまく解消している。しかも一方的に解消しているのではなく、ユーザーに選択をさせたりコミュニケーションを通じて言語化できてきたユーザー自身の希望を汲み取ることで「自分でも考えたぞ!」という気持ちの醸成に成功している。だからサービスが世の中に受けている。記事中に語られていたユーザーの意思決定を助けるという言葉がすごくしっくりくる。

 

この文脈で人間の意思決定の難しさ、言い換えるとどうしたら納得感を持つのか、という点に最近は興味がある。

答えが欲しくてGoogleで検索したのに「答え候補」がヒットし過ぎて決められない。

飲食店や美容院、引越し先、果ては就職先や結婚式場なんかも答え候補が多すぎて決められない代表格だと思う。ちなみに、いまずらっと書いてみたら全部リクルートが手がけていてちょっと寒気がした…情報屋すごすぎる。

全部インターネット上にまとまっている。検索したらヒットする。でも決め手に欠ける。いずれも定量的なデータやレーティング、クチコミ、あの手この手で僕たちの意思決定を助けようとしてくれる。それでも納得感がない。

 

言語化がうまくできていないから自分の中に軸を作ることができず、意思決定できないのだろうか?

そもそもユーザーへの見せ方に間違いがあるのだろうか?

提供された情報から意思決定するには信頼も鍵になると思う。あらゆる製品・サービスに営業マンがいて担当者からの信頼を得ることが大事なのと同じことである。

それであれば、web上に羅列された情報のみで判断することはほぼ不可能ではないか。

どんな情報があれば、人は意思決定できるのか、網羅的な情報は必ずしも必要ではない。おそらく3つ前後の判断軸(琴線のようなもの)さえ押さえられていれば判断できるだろう。

この辺りはもっと仮説を持って掘り下げたい。

走り続けているのに次の一歩が踏み出せない理由

仕事に対して思うこと

誰しも日々いろいろなことを感じながら働いていると思う。楽しい・悲しい・頑張るぞ・つまらん、などポジティブなこともネガティブなことも含めて、思うところはあるはずだ。これらに共通するのは、現状をより良いものにしたいということではないだろうか。今回は、この「より良いものにしたい」という気持ちがありながら、どうして具体的な行動に移せないのか?ということについて整理してみた。

 

思考ではなく悩み

「より良い」という言葉を使うと、「ネガティブからポジティブへ」変えることが想像しやすいが、ポジティブをよりポジティブへということも「より良い」に当てはまる。そのため、今回の整理の範囲として「ネガティブからポジティブへ」だけではないことをここで明らかにしておく。

また、日々いろいろなことを感じながら、という点は今回の整理において大事なところになる。

この感じている状態というのは、思い悩んでいるということとほぼイコールだと考える。なぜなら、悩んでいる状態というのは答えを出そうとしていない状態と定義でき、翻って「感じている」だけであれば何か前進させようとしているのではないからだ。 

 

悩みになってしまう罠

物事すべてにおいて答えを出す必要はないとは思うが、今回話題に上げている「現状をより良くしたい」という考え・課題感は答えを出したいものだと思う。答えが出せないとひたすらモヤモヤし続けることになり、精神衛生上あまりよろしくないためだ。

じゃあどうして答えを出す思考ではなく、悩みになってしまっているのか?

大きく2つの原因が考えられる。

 

まずひとつめは、自分の脳が「思考」に慣れていないためだ。これは結構厄介だが、訓練をすれば一定克服できると思う(自分は全然できていないが…)。それこそ、イシューからはじめよを読んで基本となる考え方を理解し、小さなことから実践に移していくことで習得できるのだと思う。したがって、思考法という武器を手に入れることができれば、あとは使い方を学んでいくだけなので、ふたつめの原因に比べればまだいい。

 

次にふたつめの原因だが、精神的なゆとりがない状況に陥ってしまっているというものだ。どういうことかというと、一日のなかでこの課題に向き合える時間があまりなく、ないがゆえに現状を打破できず、同じサイクルを回しながら日々を過ごしてしまうということである(自分がまさにこれだ)。

よほど先進的な企業に所属していない限り、一日の所定労働時間は7〜8時間であり、残業も1〜2時間程度は発生すると思う。ここに通勤や家事などの諸々に時間が取られると、一日あたり自由な時間は1〜2時間取れればいいほうなのではないだろうか。

1〜2時間あるならそこで真剣に考えることができるよね?などと言われたとしても、実際にはそうもいかないのが現実だと思う。会社に行って仕事をすれば、体力や気力は持って行かれるうえ、特に「ネガティブからポジティブへ」現状を変えたい人にとっては、いましがた終えてきた10時間ほどの闘いを癒やす時間だって欲しいはずだ。スマホの電源のように、ON/OFFをすぐに切り替えられるほど人間はうまくできていない。

 

このように、悩みにしたくて悩みにしているのではなく、悩みから思考へと昇華したくてもできず物理的に阻まれてしまっていることが、解決に向かえない大きな理由だと思う。

 

じゃあどうしたらいいのだろうか?

どうしたら解決に向かえるか、やや乱暴だが結論づけると「外からの刺激を受けること」に尽きるのだと考えた。

よく言われるように、人間は内から変われるほど意志の強い生き物ではなく、何かしら気付かされる・体感することではじめて自分にとっての現実になり、変わることができる。行動力なるものが生まれつき備わっていればあまり心配することないが、全員が等しく行動力の塊であるわけではないので行動力のない人にとっては直感的に理解することは難しいと思う。自分もそうであるから気持ちは非常にわかる。

それでも、いままでの人生を振り返ればいくらでも「外からの刺激を受けること」が手っ取り早い解決策だと信じることは可能だと思う。

例えば学校のテストで赤点を取ってしまい、「さすがにヤバイ」と気付き少しは勉強しようと教科書を開くことやスポーツで手ひどく負けたことや、プレッシャーの無い練習では決められていたシュートがプレッシャーのある試合では全く決められなかったことなどで「全然ダメだ」と気付き、練習方法を変えるといった経験は掘り起こせばいくらでもある。

 

理論はわかったけど…

オーケー、結局変わるには行動力やら外からの刺激が必要なんだ、でも実践が難しいよね?という考えもよくわかる。よくわかるが一方で、定義を知ることとそれを使いこなせるようになることは全く別物だ、何でもそうだけど。だから実践が難しいなんてことは、信号は青になったら渡っていいっていうぐらい当たり前のことになる。だから最後に書いておきたいことは、「外からの刺激」や「行動」という言葉を大きく捉えすぎないということになる。

はじめから、転職エージェントに相談に行けとか勉強会やらミートアップやらに参加しろとか、そういうことから始める必要はないということ。もっと小さく、仲の良い友達に相談をしてみるとか一日一行コードを書くとか自分のなりたい姿に向けて本やネットを通じてコツコツ情報収集をしてみるとか、手前でやれることは多くあるはずだ。うまくいってもいかなくても、小さいことならそんなに影響は大きくない。むしろ何らかの経験や考え方を身につけられるので、プラスでしかない。

大事なのは、できそうなところから手をつけてみる、とりあえずやってみるということ。やれないときは大体自分で物事を大きくしてしまっているときだと思う。

まとめると、悩んでいるのであれば何か小さいことから手をつけてみて、気持ちに余裕が生まれたらやっていることの幅を広げればいい。

自戒を込めて…

やりたいこと

ずっとやりたいことがなくて悩んでいました。

悩んでも仕方がないよということは、誰かのブログだったり、誰かのインタビューだったり、いろんなところで語られていて。

そういった意見に触れるたび、もしくは悩みのドツボにハマりそうなとき、そういった記事を思い出すことで「そうだそうだ、意味が無いんだった」と自分に言い聞かせてなんとか平常心を取り戻そうとしていました。

それでも人間の良くないところで、不安なことはどうやっても頭の片隅に住み着いてしまうんですね。その結果、定期的に冒頭の悩みに帰ってきてしまっていました。

 

ただ、さっきふともしかしたらこれがやりたいこと…?と思ったことがあったので、忘れないように残しておこうと思います。

僕にとってやりたいことは、ものづくり、なのかもしれません。

以下、何がきっかけでここにたどり着いたのか、つらつらと書いていきます。

 

僕はいま事業会社のITシステム部門というべきところで、ITシステムの企画・開発をしています。開発をしていますと書きましたが、実際の開発をしているのはベンダーさんであり、僕は正確には開発はしていません。その前段階である仕様を決めたりだとか、作ってもらったシステムのテストを実施しています。ただし、いまの部署に入って約半年であり年次的にも経験的にも下っ端であるため、仕様決めなんかに口を出せるわけはなく、実態としてはテストの準備や実施がメインの仕事になっています。

 

正直言っていまの仕事におもしろいところは全く無く、日々どうしたらもっと有意義に過ごせるか頭を悩ませ、変に神経をすり減らし消耗しているなぁと感じてしまっています。いかんなーと思いながらも、何もせずにいきなり日々の仕事がおもしろいものに変わるわけもなく、日々をもはや趣味であるテック系の情報収集や少しでも手に職をと本当に少しずつ開発に挑戦してみたり、好きな時間の過ごし方である読書やアニメ・映画鑑賞をするといった、仕事以外のところでバランスを取っているような、悶々と過ごしてしまっています。

 

自分の周りにとりたてて嫌な人がいるわけではなく、仕事熱心な人も多く自分にはないスキルや経験を持っている人がほとんどであり、勉強するところは非常に多い環境です。社内的に大きなインパクトを与えうるシステムのプロジェクトに、偶然とはいえ携わらせてもらっている、そして何より手を挙げてITやシステムをやりたいんだと異動させてもらった手前、何を勝手にモチベーションを下げているんだと思われても仕方がない、そんな状況だとも理解しています。

 

それでも日々感じてしまっている"停滞感"や"面白くなさ"は、紛れもなく僕の本心であり、その源はどこなのか、何なのかこの2年間ずっと探してきたように思います。仕事という文脈にかかわらず、停滞感や面白くなさは長く感じてきたのでそろそろ限界が来ているなぁともこのところ強く思っていました。

 

こういった感情は、現状何かが足りないために湧いてくるものです。その何かは、パズルのラストピースのように欠けたまま、しかも結構デザイン的に重要なピースであるために周辺をどれだけ盛り立てても本質的に解決されるわけではないのです。

 

異動してまで叶えたかったこと、前の部署ではできなかったこと・足りなかったこと、日々の行動や休日の行動から何を求めていたのか、今日やっとわかった気がします。

僕は何かを作ることをしたい、そう願い続けてきたのだと思います。

 

幼いころから手先が不器用で、イメージしたことを正確に描き出すことや譜面通りに演奏することができませんでした。当時はできないから諦めていたし、別にそんなに興味がないと思っていました。

大学生のときに出会ったスタートアップの世界では、みんな何かを表現していました。強く自分を打ち出すことはしたくなかったけど、楽しそうだなとは思っていました。

入社してはじめた営業は、自分が想定していたような場ではありませんでした。なにより何かを生み出すことを求められていない世界でした。

異動後の部署は、何かを作るところに近い気がする一方で、やっていることはものづくりとは言い難いなと感じています。ゼロからイチを創ることが尊ばれることはなく、いまの状況を改善していくことが至上な世界です。

 

僕は何かを表現したり創り出したりすることに、コンプレックスを持っているし一方で憧れています。それはインターネットの世界に少し足を踏み入れたからこそ、顕在化したのだと思います。後付け、そう思いたいだけなど、なんとでも言えますが考え方というのは後天的なものであるしとりあえずの答えとしては間違いないのだと思います。

 

長くなったのでまとめると、現状は何も創り出すことができておらず、なんちゃってものづくりの世界にいるから余計にホンモノと比較してしまい、そのギャップに苦しんでいるのだと結論づけました。やっぱり何か創り出していきたい、自分次第でそのチャンスを得ることができるのだから今年こそは頑張っていきます。もう今年も1/4が終わり、25歳になってしまいましたが、ようやく解が出せたと思います。今年の残りは"ものづくり"をテーマに少しずつやっていきます。

肯定感について

 自己肯定感という単語を、社会に出たあたりから目にするようになった。

それはもしかすると、Twitterでフォローしている有名アカウントが、似たようなことをつぶやいていたからなのかもしれない。

ひとつ確かなことは、僕の情報源のほとんどがSNSになったと同時に目にするようになったということである。

このジココウテイカンという言葉の定義をきちんと調べたわけではないので、じつは認識に誤りがあるかもしれない。自分で解釈している意味は、「自分のことをどれだけ認めてあげるか」ということ。以下、この解釈でこの言葉について思っていることを書くことにする。

 

 思い返すと、褒められた記憶がほとんどない。おそらくは褒められた記憶よりも、怒られたり悲しかったりというショックな記憶のほうが、印象深いのだろう。ただ、それを差し引いても自分のやったことを褒められるより、あるべきを教えられその通りに行動することが正とされた環境だったと思う(これは決して、過去受けてきた教育等々を批判したいわけではない)。

 褒められることがないと、自分を認めてあげることが難しくなる。

なぜなら、自分で自分の良いところを探し出すための判断軸を持っていないからだ。

自己肯定感を持ちやすい人と持ちにくい人の差は、ここに出ると思う。

つまり、自分で考えて行動したことを褒めてもらう経験は、少しずつ自信を育み、生きていくにあたっての判断軸や、次何かに挑戦しようとする気持ちを生み出す源泉となる。褒めてもらう経験それ自体が、小さな成功体験の積み重ねと言える。自分の存在はプラスなんだと思えることができるし、いい意味でプライドができる。このプライドは、自分はこうであるという存在意義に近いもので、プライドがあるということは自分のことを一定程度「認めている」ことに他ならない。

 

 自分を認める、自分の良いところを探し出すことができる、というのはそれだけで立派な才能である。不確実性が高く、大変なことやつらいことも多い人生において、これができると自分の存在意義を見出しやすくなる。

「ここは自分の良いところ(=強み)だから、こうやって活かしてみよう。うまくいかないところを克服したら、自分の成長につながるんだ」などといった悪いところばかりに目を向けすぎず、精神衛生上健全に物事を捉えやすくなる。

 

 常に不安なのは、自己肯定感が低いからではないかと最近思い始めた。

ここで感じている不安は、9割9分が未来の不確実性に起因するものであるから、考えても仕方がないことだとも重々承知している。

だからこそ、自分を認め信じてあげること(自己肯定感)が上手いとこういった不安も軽減されるのだと思う。

なぜなら自分の座標と今後のベクトルが、正しいどうかともかく信じることができているから。

 

 宗教ではないが、信じる者は救われるという言葉はあながち間違いじゃない。信じられるものがなくなると、もしくはもっていないと、人間はすぐに立ち位置を見失う。自分の位置がわからないとやはり不安になる。信じる対象を自分ではない他に置くことは、少々危険だ。いつなくなるか、変わってしまうか、わからないからだ。

それであれば自分を信じること、そのとっかかりとして自分を認めること、客観的に見つめ直すことが一周回って大切なのかもしれない。

 

 少しずつ、認めてあげる練習を始めよう。