電車内で他人の出す音が気になる理由
こんにちは。syokenです。
今回は、年末に帰省した際に乗っていた電車で思いついたことです。
電車では静かにしようという不文律
年末に電車に乗りました。
帰省なので田舎に向かう電車だったのですが、そこにはこんな時期にしかもこの方面には珍しく、外国人の家族が乗っていました。
ひとつのボックス席をその家族は使っていて、僕は近くの席に座っていました。
田舎に向かう電車なので、多くの人が最低一時間ぐらいは乗っているわけなんですが、その時間の過ごし方はさまざまで。
スマホをいじる人、読書をする人、お菓子をつまむ人、談笑する人、寝ている人…。
皆めいめいに時間を過ごしているんですが、共通していることは「あまり音を立てない」ということ。
Twitterやりながら、「みんな気使ってんだなぁ」と普段思いもしなことを考えていました。
突然のムービーが始まる
そんなことを考えていたら、何かしらの機械から流れている音声に気づきました。
音源はさきほどの外国人の家族からで、ちょっと気になるなぁというぐらいの音量でした。
なんの動画かわかりませんが、おそらく彼らの国でやっているバラエティ番組のようでした。
そういう動画だと当然、番組のサクラによる笑い声やおおげさなリアクションなんかも聞こえてくるわけです。
見かねたおっちゃんが身振り手振りを交えながら、「音がうるさいから静かにしてくれ」的な文句を言ったことで以降動画の音は聞こえなくなりました(たぶんイヤフォンをつけた)。
電車で音を立ててはいけないの?
ここまでが前置きで、ここからが今回のブログの主題なのですが、この状況を見てふと
そもそも電車で音を立てることは悪いことなのか?
という疑問が湧いたのです。
上に書いた状況は、
動画の音が聞こえる→なんとなくうるさいと感じる→注意する
このように表せます。
つまり、電車で音を立てること=悪いこと、という図式がおっちゃんを注意させるに至ったわけです。
でもこれって本当に正しいのでしょうか?
もしこれが全面的に正しいのであれば、
友達と話すこともできなくなりますよね?
そうなると電車がお葬式状態になりますね。
電車に乗っていて聞こえるのは、車輪とレールがこすれる音や車両のつなぎ目の部分が動くときに鳴る音や、車掌さんのアナウンスだけになりそうです。
なんだかめちゃくちゃ味気ない、人間輸送車になるでしょう。
できることは一人遊びのみなので、コミュ障の方々にはむしろありがたい空間になるかもしれませんが。
べつに音を出しちゃいけないわけではない
でも現状友達と話してはいけない、ということにはなっていないじゃないですか。
つまり、電車で音を立てること=悪いこと、という図式は成り立っていないということ。
それではおっちゃんが、動画の音量を下げてくれと言ったことは間違っていることなのでしょうか。
決してどちらかが明らかに悪いということではなくて、きっとこれは固定観念のせいなのではないかと思いました。
どういうことかというと、何かしらの機械を介して発している音は、人間にとって実は心地良いものではないということです。
え?固定観念と心地良いかどうかは話が違くない??とツッコみたいはやる気持ちを抑えて、もう少し話を聞いてください。
固定観念の話
ここでいう固定観念は、「乗車中の携帯電話による通話はお控えください」というアレです。
これってけっこう謎な話だなと昔から思っていて。
だってその場で話しているぶんにはOKで、携帯で話すのはNGって「話す」という行為は変わらないのに区別される理由がわからないなぁと。
たしかに電話だとなんとなく大きな声になりがち(特に電車みたいに雑音が多いところでは)ですが、その場で話しているときだって気にならない程度の音量かというとそうでもない。
つまり「通話はお控えください」というアナウンスは、携帯電話がまだ一般的でなかった頃に持っていない人達からの「なんとなくうるさい」という申し出が鉄道会社に殺到したから流れるようになったのかもしれない。
携帯電話が普及し始めて約20年。10年をひとつの年代として捉えるなら、もう2倍の月日が経っています。
この20年間、毎日欠かさずアナウンスを流していれば、電車内の通話はいけないことだというひとつの観念が出来上がるはずです。それがたとえ根拠の弱いものであっても。
だんだん範囲が広がっていく
こうなると携帯電話にとどまらず、あらゆる電子機器が発する音はダメなんだ、という共通認識ができあがるのも自然な流れだと思います。
携帯電話による通話も電子機器の発する音も、共通項は「電子機器」と「音」です。
決して無理な援用ではないように思われます。
音楽プレイヤーの音漏れやゲームの音。言わずもがな、聞こえてきたら白い目で見られることでしょう。
こうして、電車内での通話がNGから電子機器による発音がNGに範囲が広がるのです。
実は心地良くないという話
どうしてこういうことになってしまったのか?
繰り返しますが、電車内でのおしゃべりはOKで電話や音漏れがNGなのはどういうことなのか?
たぶんこれは人間の構造上、機械を通した音や機械が介在した結果の音が嫌いなんだという考えに至りました。
家族が見ていた動画や電車内の通話も、周りの人のおしゃべりも、基本的に音量に差はないと思われます。
それでも前者がダメで後者はいい、というのはつまるところ機械を通したあの独特な音声が苦手なんだということにならないでしょうか?
人間の耳が自然に頑張って音を拾おうとするので、ちょっと異質な音があると必要以上に拾い上げてしまう。
それに加え、電車内で電子機器による音を発生させることは悪いこと!という観念があったせいで、家族の見ていた動画の音量を注意するおっちゃんという状況に遭遇したのだと思います。
強引ですが、固定観念に裏付けられたものは人間の感覚的なものに拠り、しかもその観念が社会通念上力を持つようになったがゆえに電車内で他人の出す音が気になるようになった、と結論づけました。
よくよく考えるとなかなか不思議なものでした。
終わりに
アイキャッチ画像は、「フリー写真素材ぱくたそ」よりお借りしました。
前提として、電車で遭遇した動画の音量はべらぼうに大きいものではありませんでした。
また、それを注意した男性を否定する気も毛頭ありません。
さらにお気づきのとおり、これらの考えは科学的な根拠を調べていないただの仮説の話です。
もし、人体の耳の構造の科学的根拠や通話はお控えくださいアナウンスが流れ始めた経緯など、ご存知の方がいらっしゃれば是非ご教示頂けると幸いです。
最後に思わずつぶやいてしまったツイートを貼って終わりとします。
電車内でこんなに堂々と音出して動画見てるやつ初めて見た
— Kensyo (@syo_ken_sho) 2015, 12月 27
大学受験のことを少し思い出した
こんにちは。syokenです。
記事一発目は、季節に即したテーマです。
受験が今年もやってきた
2016年も早いもので2月になりました。
当事者じゃなくなると忘れがちですが、2月は大学受験が始まる時期ですね。
今回受験シーズンだと覚えていたのは、友人の弟が今年受験生でして、僭越ながら去年の春頃から受験勉強のアドバイスをしていたからです。
「頭の悪いsyokenが大学に入れたのは、何かカラクリがあるに違いない」と期待して聞いてくれたのだと思いますが、期待を裏切りマジメに対応し続けた一年でした(僕はそこそこ受験オタクだったので、まさに水を得た魚。ベラベラ喋りまくりました)。
本田圭佑選手に影響を受ける
定期的に受験について相談を受けることで、ふと思い出したことがあります。
それは、僕が受験生だった頃、現ACミラン所属の本田圭佑選手の考え方に影響をモロに受けていたことです。
引用:GettyImages-508308494-500x365.jpg
自信にあふれた発言はたびたびメディアに取り上げられ、最近ではSVホルンの経営にも参画するなど、型破りなサッカー選手である本田選手。
彼のことを知ったきっかけは、南アフリカW杯・その翌年のアジアカップでした。
当時サッカーに興味はなかったのですが、受験勉強の息抜きと称して試合を見始め、想像よりもおもしろかったことを契機に、すっかりにわかサッカーファンになってしまいました。
もっと試合を楽しみたい気持ちが大きくなり、「彼らはどういう選手なんだろう?」と
いろいろ調べ始めたところ、僕の人生に影響を与えた日本サッカー界の"異端児"の半生を知ることになったのです。
「プロフェッショナル 仕事の流儀」
少し話は逸れますが、僕は一浪して大学に入学しました。
浪人という時間を過ごしていると、自分の人生について考えることが増えました。
勉強が嫌でイヤで仕方ないことによる現実逃避というわけではなく、先行きの見えない不安を抱えていました。
そんな中、何か生きるヒントが欲しいなぁ〜とぼんやり考えながらテレビを見ていると、ある番組に出会いました。
それが「プロフェッショナル 仕事の流儀」です。
タイミングよく、近いうちに本田選手の回が放送されると知り、にわかサッカーファンとしては見るしかねぇ!とわくわくしながら放送日を楽しみに待っていました。
俺なら「できる」
楽しみにしていた放送を見終わった僕は、いたく感銘を受けていました。
とはいえ今となっては、本田選手が語っていたことのほとんどを、残念ながら忘れてしまったのですが、ひとつだけ今でも覚えていて尚且つ自分の受験にあたって参考にした言葉を紹介します。これが今回の記事で一番伝えたいことです。
「俺ならできる 俺ならできる」
オランダ2部でプレーしていたときのこと。思うように結果を出せないなかで、この言葉を常に自分にかけ続けていたそうです。自分のやっていること、可能性、すべてひっくるめて自分を信じ続けていたと語られていました。
番組を見るまでは、どこか人間離れしている人だなぁと感じていましたが、普通の人みたいに悩んでいたことがあるんだ!と勝手に親近感がわき、また2部リーグでのプレーと浪人して勉強、という点も境遇として似ていると勝手に思い、このシンプルな言葉を受験生活に取り入れたのでした。
たぶん効果はあった
試験開始の直前に生じる空白の時間中は、ひたすら「俺ならできる」と唱えていました。
決して緊張がほぐれたというわけではなかったのですが、ずーっと心の中で唱えていると不思議なもので「できる」と思えてくるんですよね。
無事志望していた大学に合格できたので、少なからず効果はあったと言えるでしょう。
この考え方や言葉は、受験に限らず日常生活においても応用できるし、どんな人であっても参考になるところがあると思います。
せっかく久しぶりに思い出したので、きちんと心に留めておきます。
機会があればぜひ映像も見て欲しいです。
こうやって書いていると、まるで本田選手の信者のようですが、そういうわけではありません、と念のため…。
受験当時は信者でしたが(笑)
はじまりはじまり
こんにちは。syokenです。
ブログ始めました
このたびブログを開設しました。
人様の役に立つような記事を書くというよりは、ダラダラと備忘録的な使い方をできればと思っています。
三日坊主、最初だけ頑張る、というありがちなブログの終わり方にならないよう気をつけます。
何について書くか
ブログを始めたということは、なにか伝えたいことがあるということです。
ここで、考えている記事のテーマを整理しておきます。
記事のテーマは、
- 興味のあること
- 気づいたこと
- 日々起きたこと
こんなところになるでしょう。何の変哲もありませんね。
あまりにも普通なテーマしかないので、飽きないか早速不安です。
だんだんと、テーマの幅も広げていきたいです。
気楽に頑張ります。