No Reply

とりあえず書きたいことを。

Facebookに人生を感じた話

Facebookって"いいこと"しか共有されないじゃないですか。
友達と遊んだ話、感謝の話、ライフイベントの話。
基本的に不幸なことはフィードに表示されなくて。
不自然ではあるけどあまり不快感はない空間がFacebook独特の世界観。
今回感じたものは幸せ系の話がきっかけでした。

 

小学校卒業以来、会ったことも気にかけたこともなかった友人から先日友達申請がきました。
申請が来たことに少し戸惑いながらも特に利害関係もないしな、と思いながら承認。
承認したことも忘れていた今日、たまたまフィードを眺めているとその人の投稿が流れてきました。


子供が生まれて何ヶ月かの記念です、という旨の投稿だったのですが、驚いたことに配偶者が外国人の方!
さすがに予想の範囲を突き抜けすぎててぶっ飛びました。
ここで驚きポイントを整理すると、
①子供がいること
②結婚相手が外国人
③英語での投稿もしてる
この3点です。
いったい小学校卒業以来、どんな人生を送ってきたのか想像することが難しかったです。

 

この出来事で改めて一人ひとりに人生があるんだということに気づいたんですよね。
当たり前のように知らない人生がごまんとあって、ほとんどが自分を通り過ぎていってしまう。
こいつ面白いなーっていう人生を送れるよう頑張ります。

日本の人口が減ることでコミュニケーションのありかたが変わるかもしれない

こんにちは。syokenです。

 

突然ですが、僕は英語が話せません。

正確に言うと、日本語しか話せません。

日本に住んで生活するぶんには全く不自由しないですが、

一方で海外に行くとこれがけっこう困ります。

当たり前だろ!という話ですが、

今回は少し視点を変えて、もしかしたら将来日本にいながら言語に困るということが起きるのでは????

と思ったので記事を書いておくことにしました。

 

 人口が減る=話者が減る

日本の人口は今後どんどん減っていくそうです。

「日本 人口」と雑にGoogle検索してみるだけでも、

年々数が減っていることがわかるグラフが出てきたり、

2050年には人口が9000万人を割るなんていう推計も出てるそうです。

これまでは「人口が減って日本ヤバイ!」みたいな話を聞いても、あまりピンときていなかったのが正直なところでした。

でもある日ふと、人口が減るってことは単純に考えるとその言語を話す人間が減るってことで、そうなると日本語しか話せない人間は生き方が制限されてくるんじゃないか?と思ったわけです。

 

 日本語消滅…?

言語は話す人、伝える人がいなくなれば使われることはなくなります。

ある少数民族が話す言葉には、書き言葉が無いためにその民族が絶えてしまう瞬間がその言語が死ぬときなのだ、ということも聞いたことがあります。

実際になくなってしまった言語もあります。

日本語が絶滅してしまうことは、さすがに無いだろうとは思いますが、

日本語を使える人が減ってしまうとコミュニケーションに困る場面が増えるということになるとは思います。

国内でできることはだんだんと少なくなり、ビジネスにおいてはますます諸外国と関わり、海外に進出していかないとお金を稼ぐことが難しくなるのではないかと思います。

となると一緒に仕事をする人は日本語を話さない・話せないことが普通になるでしょう。

仕事をしている人が人口の過半を占めるということを考えれば、

仕事で日本語を使う機会が減る=日本語がなくなる

ということになるはずです。

 

じゃあどうやってコミュニケーションとるの?

基本的には日本語が通じる一方で、ゆるやかにその「輪」が小さくなります。

同時にテクノロジーの発展により、言語の壁はどんどん低くなり、誰とでも簡単にコミュニケーションが取れるようになる、そんな世界になるのではないでしょうか。

例えば、脳とデバイスを直接接続することが可能になれば音に頼るコミュニケーションは姿を消してしまうのではないだろうか。

イメージ的には会話は常にLINEのようなチャット形式で、テキストベースのやり取りになるという感じです。

このテキストも翻訳機能が飛躍的に改善されることで、受け手に合ったカタチで受信できるようになります。

ここまできたら、日本語や英語といった言語の境目がなくなり、全ての人間が共通の言語で会話する非常にフラットで中立的な世の中に変化することでしょう。

コミュニケーションコストもかなり低くなるはずです。

 

 とは言っても

ここまでSFな世界になるのは、さすがに生きている間にはないだろうと思います。

そもそも言語がなくなることは文化の大半も失われてしまうことになるため、

学者の方々やそれに耐えられない一般人が抵抗するはずです。

僕自身もテクノロジーの発展に興味がある一方で、コミュニケーションや言語が大きく変容していくことには抵抗感を覚えるほうですし。

ひょっとすると、いまの時代に車を所有すること同様に、言語を学び文化に触れることは必需のものから趣味のものへと変わっていくのかもしれませんね。

いや、もうそうなりつつあるか…

うららかな春の日差しを受けて

タイトル文は僕の出身中学校の卒業式で行われる「呼びかけ」の一フレーズです。

 

 

こんにちは。syokenです。

コツコツ書き続けると宣言したこのブログですが、1記事も書かないうちに3月が終わってしまいました。

もっとマメに文章を書く癖をつけます。

4月こそ頑張ります!

 

さて、3月といえば別れの季節ですね。

僕もこのたび晴れて大学を卒業できました。

高校では先輩・後輩という関係性とは無縁の生活を送っていたので、

今回は人生で初めて先輩や後輩が送り出してくれた卒業式でした。

小学校や中学校のそれはどうなんだ?というと、義務感のある「式典」だと思わざるをえません。予行練習とか死ぬほどやりますし。どうしても感動が薄れてしまうんですよね。

 

ダラダラとした思い出語りはここではやめにして、ブログでは大学生活で得られた学びをまとめておきます。

きちんとした振り返りではありませんが、こういうのは旬が大事なので少々無理やり書くことにします。

 

大学生活で得られたもの3つ

3つにした理由は、「世の中のものごとを説明するときは3つのポイントに分けるとちょうどいい」という何がちょうどいいのかさっぱりわからない、音に聞くプレゼンの極意(?)が頭の片隅に残っていたからです。

言い換えると理由はないということです。

 

さっそく1つ目ですが、「自分は何者でもない」という気付きです。

いきなり意識高い系のようなことを口走ってしまいました。

胃もたれしないうちに先を急ぎましょう。

 

僕は厨二病なので「自分は特殊な才能を持っているに違いない…!」とか、「いまはサクセス・ストーリーの途中だから(キリッ」とか非常に恥ずかしいことを考えたりします。

しかし妄想と現実の違いは非情なもので、特殊な才能を発揮したことや初めから要領よく結果を出した、なんてことは一度もありませんでした。

こうも初めからうまくいったことがないとメンタルにくるものですが、

自分はそういう者だと受け入れ、できることを1つずつ着実に増やしていこうと考えられるようになりました。

 

二つ目は、機会を逃さないことです。

たとえば、「今度飲み行こー!」と言っておきながら行けなかった。

あるいはもっと一緒に遊びたかったのに、なんだかんだできなかった。

 

こうしたことが、4年間を振り返ると結構あるなぁと思いました。

 一度しかできなかったことは、そのときその場にいなかったら起こり得なかったということです。

時間とお金の制約がある以上、全てのイベントに参加することは不可能ですが、やらない後悔ほどしょうもないことはありません。

後回しにせず、いまできることはいまやる、こうした姿勢を忘れないようにしたいものです。

 

最後は、自らで考える癖をつけるということです。

当たり前すぎてあえて書くことに多少の恥ずかしささえあります。

僕はこれまで自分で考えて意思決定をする、言い換えればロジカルシンキングが非常に苦手で実践しようともしていませんでした。

ものごとの因果関係をとらえ、これはどういう仕組みなんだろうか?と考えることはこの先誰も助けてくれない社会を生き抜くために必要な力です。

何事も結局そうなのだと思うのですが、最後に頼りになるのは自分の身ひとつだけ、もっといえば脳みそだけです。

体が貧弱なぶん、脳みその筋トレは怠らないようにします。

 

最後に

これら3つの得られたものをあげました。

得たものというよりは、得た考え方ですね。

何か「モノ」を得たという話ではありませんし。

また時間があればしっかり振り返りたいと思います!

ひとまずこれらを胸に今月から頑張ります!

電車内で他人の出す音が気になる理由

こんにちは。syokenです。

今回は、年末に帰省した際に乗っていた電車で思いついたことです。

 

電車では静かにしようという不文律

年末に電車に乗りました。

帰省なので田舎に向かう電車だったのですが、そこにはこんな時期にしかもこの方面には珍しく、外国人の家族が乗っていました。

ひとつのボックス席をその家族は使っていて、僕は近くの席に座っていました。

田舎に向かう電車なので、多くの人が最低一時間ぐらいは乗っているわけなんですが、その時間の過ごし方はさまざまで。

スマホをいじる人、読書をする人、お菓子をつまむ人、談笑する人、寝ている人…。

皆めいめいに時間を過ごしているんですが、共通していることは「あまり音を立てない」ということ。

Twitterやりながら、「みんな気使ってんだなぁ」と普段思いもしなことを考えていました。

 

突然のムービーが始まる

 そんなことを考えていたら、何かしらの機械から流れている音声に気づきました。

音源はさきほどの外国人の家族からで、ちょっと気になるなぁというぐらいの音量でした。

なんの動画かわかりませんが、おそらく彼らの国でやっているバラエティ番組のようでした。

そういう動画だと当然、番組のサクラによる笑い声やおおげさなリアクションなんかも聞こえてくるわけです。

見かねたおっちゃんが身振り手振りを交えながら、「音がうるさいから静かにしてくれ」的な文句を言ったことで以降動画の音は聞こえなくなりました(たぶんイヤフォンをつけた)。

 

電車で音を立ててはいけないの?

ここまでが前置きで、ここからが今回のブログの主題なのですが、この状況を見てふと

そもそも電車で音を立てることは悪いことなのか?

 という疑問が湧いたのです。

上に書いた状況は、

動画の音が聞こえる→なんとなくうるさいと感じる→注意する

このように表せます。

つまり、電車で音を立てること=悪いこと、という図式がおっちゃんを注意させるに至ったわけです。

でもこれって本当に正しいのでしょうか?

もしこれが全面的に正しいのであれば、

友達と話すこともできなくなりますよね?

そうなると電車がお葬式状態になりますね。

電車に乗っていて聞こえるのは、車輪とレールがこすれる音や車両のつなぎ目の部分が動くときに鳴る音や、車掌さんのアナウンスだけになりそうです。

なんだかめちゃくちゃ味気ない、人間輸送車になるでしょう。

できることは一人遊びのみなので、コミュ障の方々にはむしろありがたい空間になるかもしれませんが。

 

べつに音を出しちゃいけないわけではない

でも現状友達と話してはいけない、ということにはなっていないじゃないですか。

つまり、電車で音を立てること=悪いこと、という図式は成り立っていないということ。

それではおっちゃんが、動画の音量を下げてくれと言ったことは間違っていることなのでしょうか。

決してどちらかが明らかに悪いということではなくて、きっとこれは固定観念のせいなのではないかと思いました。

どういうことかというと、何かしらの機械を介して発している音は、人間にとって実は心地良いものではないということです。

え?固定観念と心地良いかどうかは話が違くない??とツッコみたいはやる気持ちを抑えて、もう少し話を聞いてください。

 

固定観念の話

ここでいう固定観念は、「乗車中の携帯電話による通話はお控えください」というアレです。

これってけっこう謎な話だなと昔から思っていて。

だってその場で話しているぶんにはOKで、携帯で話すのはNGって「話す」という行為は変わらないのに区別される理由がわからないなぁと。

たしかに電話だとなんとなく大きな声になりがち(特に電車みたいに雑音が多いところでは)ですが、その場で話しているときだって気にならない程度の音量かというとそうでもない。

つまり「通話はお控えください」というアナウンスは、携帯電話がまだ一般的でなかった頃に持っていない人達からの「なんとなくうるさい」という申し出が鉄道会社に殺到したから流れるようになったのかもしれない。

携帯電話が普及し始めて約20年。10年をひとつの年代として捉えるなら、もう2倍の月日が経っています。

この20年間、毎日欠かさずアナウンスを流していれば、電車内の通話はいけないことだというひとつの観念が出来上がるはずです。それがたとえ根拠の弱いものであっても。

 

だんだん範囲が広がっていく

こうなると携帯電話にとどまらず、あらゆる電子機器が発する音はダメなんだ、という共通認識ができあがるのも自然な流れだと思います。

携帯電話による通話も電子機器の発する音も、共通項は「電子機器」と「音」です。

決して無理な援用ではないように思われます。

音楽プレイヤーの音漏れやゲームの音。言わずもがな、聞こえてきたら白い目で見られることでしょう。

こうして、電車内での通話がNGから電子機器による発音がNGに範囲が広がるのです。

 

実は心地良くないという話

どうしてこういうことになってしまったのか?

繰り返しますが、電車内でのおしゃべりはOKで電話や音漏れがNGなのはどういうことなのか?

たぶんこれは人間の構造上、機械を通した音や機械が介在した結果の音が嫌いなんだという考えに至りました。

家族が見ていた動画や電車内の通話も、周りの人のおしゃべりも、基本的に音量に差はないと思われます。

それでも前者がダメで後者はいい、というのはつまるところ機械を通したあの独特な音声が苦手なんだということにならないでしょうか?

人間の耳が自然に頑張って音を拾おうとするので、ちょっと異質な音があると必要以上に拾い上げてしまう。

それに加え、電車内で電子機器による音を発生させることは悪いこと!という観念があったせいで、家族の見ていた動画の音量を注意するおっちゃんという状況に遭遇したのだと思います。

強引ですが、固定観念に裏付けられたものは人間の感覚的なものに拠り、しかもその観念が社会通念上力を持つようになったがゆえに電車内で他人の出す音が気になるようになった、と結論づけました。

よくよく考えるとなかなか不思議なものでした。

 

終わりに

アイキャッチ画像は、「フリー写真素材ぱくたそ」よりお借りしました。

前提として、電車で遭遇した動画の音量はべらぼうに大きいものではありませんでした。

また、それを注意した男性を否定する気も毛頭ありません。

さらにお気づきのとおり、これらの考えは科学的な根拠を調べていないただの仮説の話です。

もし、人体の耳の構造の科学的根拠や通話はお控えくださいアナウンスが流れ始めた経緯など、ご存知の方がいらっしゃれば是非ご教示頂けると幸いです。

最後に思わずつぶやいてしまったツイートを貼って終わりとします。

大学受験のことを少し思い出した

こんにちは。syokenです。

記事一発目は、季節に即したテーマです。

 

受験が今年もやってきた

2016年も早いもので2月になりました。

当事者じゃなくなると忘れがちですが、2月は大学受験が始まる時期ですね。

今回受験シーズンだと覚えていたのは、友人の弟が今年受験生でして、僭越ながら去年の春頃から受験勉強のアドバイスをしていたからです。

「頭の悪いsyokenが大学に入れたのは、何かカラクリがあるに違いない」と期待して聞いてくれたのだと思いますが、期待を裏切りマジメに対応し続けた一年でした(僕はそこそこ受験オタクだったので、まさに水を得た魚。ベラベラ喋りまくりました)。

 

本田圭佑選手に影響を受ける

定期的に受験について相談を受けることで、ふと思い出したことがあります。

それは、僕が受験生だった頃、現ACミラン所属の本田圭佑選手の考え方に影響をモロに受けていたことです。

http://soccerking.s3.amazonaws.com/wp-content/uploads/2016/02/GettyImages-508308494-500x365.jpg

引用:GettyImages-508308494-500x365.jpg

 

自信にあふれた発言はたびたびメディアに取り上げられ、最近ではSVホルンの経営にも参画するなど、型破りなサッカー選手である本田選手。

彼のことを知ったきっかけは、南アフリカW杯・その翌年のアジアカップでした。

当時サッカーに興味はなかったのですが、受験勉強の息抜きと称して試合を見始め、想像よりもおもしろかったことを契機に、すっかりにわかサッカーファンになってしまいました。

もっと試合を楽しみたい気持ちが大きくなり、「彼らはどういう選手なんだろう?」と

いろいろ調べ始めたところ、僕の人生に影響を与えた日本サッカー界の"異端児"の半生を知ることになったのです。

 

「プロフェッショナル 仕事の流儀」

少し話は逸れますが、僕は一浪して大学に入学しました。

浪人という時間を過ごしていると、自分の人生について考えることが増えました。

勉強が嫌でイヤで仕方ないことによる現実逃避というわけではなく、先行きの見えない不安を抱えていました。

そんな中、何か生きるヒントが欲しいなぁ〜とぼんやり考えながらテレビを見ていると、ある番組に出会いました。

それが「プロフェッショナル 仕事の流儀」です。

タイミングよく、近いうちに本田選手の回が放送されると知り、にわかサッカーファンとしては見るしかねぇ!とわくわくしながら放送日を楽しみに待っていました。

 

俺なら「できる」

楽しみにしていた放送を見終わった僕は、いたく感銘を受けていました。

とはいえ今となっては、本田選手が語っていたことのほとんどを、残念ながら忘れてしまったのですが、ひとつだけ今でも覚えていて尚且つ自分の受験にあたって参考にした言葉を紹介します。これが今回の記事で一番伝えたいことです。

 

「俺ならできる 俺ならできる」

 オランダ2部でプレーしていたときのこと。思うように結果を出せないなかで、この言葉を常に自分にかけ続けていたそうです。自分のやっていること、可能性、すべてひっくるめて自分を信じ続けていたと語られていました。

番組を見るまでは、どこか人間離れしている人だなぁと感じていましたが、普通の人みたいに悩んでいたことがあるんだ!と勝手に親近感がわき、また2部リーグでのプレーと浪人して勉強、という点も境遇として似ていると勝手に思い、このシンプルな言葉を受験生活に取り入れたのでした。

 

たぶん効果はあった

試験開始の直前に生じる空白の時間中は、ひたすら「俺ならできる」と唱えていました。

決して緊張がほぐれたというわけではなかったのですが、ずーっと心の中で唱えていると不思議なもので「できる」と思えてくるんですよね。

無事志望していた大学に合格できたので、少なからず効果はあったと言えるでしょう。

この考え方や言葉は、受験に限らず日常生活においても応用できるし、どんな人であっても参考になるところがあると思います。

せっかく久しぶりに思い出したので、きちんと心に留めておきます。

機会があればぜひ映像も見て欲しいです。 

 

こうやって書いていると、まるで本田選手の信者のようですが、そういうわけではありません、と念のため…。

受験当時は信者でしたが(笑)