「自信を持て」という言葉の残酷さ
自分に自信がない
僕は自分に自信がありません。
自己肯定感も低い。
会社に入って丸4ヶ月が経ちましたが、成長実感も無い。
毎日、うまくいかないこと・出来なかったことに対する失望感に苛まれています。
前向きに働くことができていないので、自分自身の課題を解決しよう、できるようになろう、という考えに至る前に目の前のことをいかにこなすか?という非常に近視眼的な思考しかできていません。
新入社員なんだからもっと気楽にやれよ、という話かもしれませんが、そもそも自信がない=自己評価が低い=成功体験が圧倒的に少ない、という等式が成り立ってしまっている以上、いまやっていることが上手くいくようになったら自分にとってどうなのか?ということがイメージできていなく(=自信が持てている状態になるイメージがない)、結果うまくできてないことにフォーカスしてしまい、良い解決策を思いつけるような発想力の妨げになっているように思います。
このままじゃマズいという焦燥感
加えて、いまやっていることに100%納得感の無いことが意欲の減退に拍車を掛けています。一定の社会的価値はわかるものの、そこに懸けるほどの熱意は湧いてきません。覚悟感がない、未だに学生気分が抜けていない、などと言われてしまえばぐうの音も出ないため「自分が悪い」ループに入ってしまっています。
いまの職種が自分に本当に向いていないのか?仮に環境を変える、ないしは異動で職種を変えたところでうまくいくことになるのか?ここを明確に線引きできていないため、非常にモヤモヤしています。
「青い鳥症候群」
自信がなく、自己肯定感の低いなかで仕事に集中しきれていないこの状況を、早いタイミングで見切りをつけ、他でうまくやることを夢見る。ざっくり現状をまとめるとこうなのではないかと思います。
でもこれはいわゆる「青い鳥症候群」の傾向が非常に強い、とも言えます。現実を直視せず、理想を追い求め続けることで結局にっちもさっちもいかなくなってしまう。こんな状態はかなり悲惨だと思うわけです。とは言っても、現状が本当に合っていないときはどうなってしまうんだと。語弊を恐れずに言えば、損切りができなかったために無駄な時間を過ごしてしまう可能性も十分にあるよね、ということです。
それだけはどうしたって避けたいわけです。人生は長いかもしれませんが、何事かを成すにはあまりに短い。要するに不用意な失敗はしたくないのです。
まとめ
自分に自信がないと冒頭書きましたが、それなら自信をつけるために何をしてるの?と聞かれても何も出てきません。環境のせいにして泣き言をいうのは簡単ですが、それを変えようという意識はどこかにあったのだろうか?これらに正面きって向き合っておらず、ただ自己嫌悪のスパイラルにはまってしまっている。自分を変えるには、付き合う人を変えるか、環境を変えるか、みたいな話もありますが、圧倒的に環境を変えることが抜本的な解決方法なのです。環境を変えず、ただ日々を漫然と過ごしている現状は心の底から「変えたい」と思っていないだけなのではないだろうか。かなり曖昧な一方で負の感情は強くなっているこの状況で、自信もへったくれもありません。無くてもいいからとりあえず自信を持ってみることの大切さは理解できますが、理解と行動には隔たりがあります。きちんと接続するには問題を細かくしていかなくてはいけません。
結局、自信は気持ちとほぼ同義で、そもそも気持ちがない人間にはその人自身を殺してしまうほどのインパクトがある。そう感じるわけです。
人生は意志で何とかなる
人生で成し遂げたいことの多くは意志でどうにかなる。
営業成績を上げたければ何とかして上げようと思うこと、スポーツを上達したいと思えば練習を頑張る気持ちを持つこと。何でも、大抵のことは気持ちでどうにかなる。ただ願うだけではダメで、行動をしなくては変わらない。しかしながら意志が無ければ行動に落とすことは難しく、その意味では意志が大切なうえ、極論言えば意志さえ固めてしまえばほぼ成功みたいなものだ。
その道で一握りの人間になれるかは、運と才能の両方が必要だ。これは絶対に間違いない。この但し書きが無いとするなら世の中にはイチローが溢れ、地元のサッカーチームはメッシだらけで、意識の高い大学生は皆ザッカーバーグになれることになってしまう。なので運と才能が必要ない、なんてことは絶対にあり得ないし、意志と行動が揃ってさえいれば一流になれるとも限らない。それでも二流ぐらいにはなれる可能性は高い。何故なら意志を持って行動する人は、それを継続して行うことができるからだ。継続して行えば、大抵のことはそこそこできるようになる。そうすると、初めは嫌だったかもしれないそれも「そこそこ楽しい」ものに変わるだろう。うまくいけば、中の上ぐらいの実力はつくかもしれない。
こういった話を違う事象に当てはめるのであれば、このようにして多くの人は社会に適応するようになる。人間は慣れることに強い。慣れてしまえば手なりでできることも増える。身につけたことをそのまま使えば結果は出るし、少し工夫すれば違う結果が得られる。これほど精神衛生上、また生産性的にも良いことはない。
意志を持って動くことで、物事は前進する。
僕は社会に出て半年が経過した。インターン時代も含めれば1年を超えている。であるにもかかわらず、成長実感は無く、実際に成長もしていないのだと思う。強いて言えば多少業務の進め方に慣れ、効率が良くなっているぐらいだろう。ここには意志がない。だから行動が伴わず、結果も得られない。至極シンプルな構図故に、何が足りないのかがよくわかる。ここまでやってきて意志を持てていないことを考えると、正直向いていないと判断しても仕方ないのではないだろうか。向いていない判定を出されるのは全く怖くないし、むしろ決めて欲しいとさえ思っている。
意志が行動において、本当に重要なんだと感じたこの半年間だった。ただひたすらに、才能よりも何よりも意志を持てるものを探し続けたい。
TwitterをSnapchatが買収したら面白い
ここ数日、Twitter買収に関するニュースがちらほらと報じられるようになりました。
どうやらGoogleとSalesforceが興味を持っているそうです。Facebookも挙げられていた気がします。こういう買収話にはたいてい出てくるので、信憑性はそこまで無いのかなぁなんて思ったりします。
一方で、Snapchatはあまりこういった話に登場してこない印象です。調べてみると、いくつかのスタートアップを買収しており、それぞれシナジーが期待できる様子。けっこう堅実な経営をしている印象でした。でもこのタイミングでTwitter買収という、ある意味賭けのような張り方をしたら面白いんじゃないかと思っています。理由は以下のとおりです。
①両方とも刹那性の高いサービスであること
②動画(特にLIVE)領域に力を入れていること
③マス向けと個人向けのバランスが取れること
いまの状態を伝える使い方がメインなTwitterと閲覧されたら消えてしまうSnapchat。根本の思想は異なっていても、双方のナレッジは応用できるのでは?と考えています。あとは必要ないけど、Twitter上でSnapchatの投稿がストレス無く見れるようになるとより広がりが生まれそう。Vineのように!
2つめの動画領域は、どのSNSも力を入れているポイントなので単純に力を合わせたら良いものができそうだなという予想です。個人的にはLIVE動画は全く使わないので、マストな機能では無いのですがテレビと同じでTLに流れてきたときに暇だったらなんとなく見てしまうので(Facebookの動画は特に)、サービスの滞在時間を増やすためには外せないチャネルだと思います。
Twitterは不特定多数に、Snapchatは特定個人に、という使い方が通常だと思います。それぞれ性質が異なるため、共存よりも独立して一方が立たなくなった際のリスクヘッジを図ればいいはずです。うまくコラボして新たな製品・サービスを生み出してくれると消費者としては面白いですね。しばらくはTwitterがリスクのほうになりますが。
ざっと書いてみましたが、正直あまりシナジーはなさそうですね笑
それでももし一緒になったら、何か起きるんじゃないかなぁと期待しちゃいますね。ここで突然Snapchatが上述した企業に抜け駆けて、サクッと決めてしまったら伝説になるはず…!ぜひとも頑張って欲しいです。
もう夏が終わる
もう夏が終わる
どこか浮き足立ったお盆が、風物詩ともいえる渋滞情報と共に過ぎ去り、気づけば8月も残り約1週間となった。
物心ついてから、正確には小学校に通い始めたぐらいから、夏休みの時間の流れは一定ではないなと感じていた。
夏休み初期(7月後半)は時間の流れはゆっくりで、8月1週目から少しずつペースが上がり、甲子園がいつの間にか始まり少し目を話した隙に決勝を迎えている。ここまでくると夏休みは折り返しを過ぎていて、あっという間に9月1日がやってくる。
今年から社会に出たことで、これまでのように長い夏休みを取ることは無理になったのだけれど、8月中旬から下旬にかけてのスピード感の変わらなさには若干戸惑った。
「夏らしいことをしなくちゃ」という使命感は、もともと強くないのだけれど、今年は少しそういう気持ちがあった。とはいっても、派手にプールで騒ぐとか、海で調子こくとか、そういったことは一切やらずただ夏を感じたいという気持ちが強かった。
家でぐだぐだしていることがもったいないと考え、用事もないのにフラフラ外に出ることが増えた背景には、「あっという間に終わる」という事実と感覚を鈍らせるためなのかもしれない。
今年はリオ五輪があったおかげで、テレビの前に張り付こうと思えばいくらでも張り付ける年だった。
ただし、一方で甲子園の注目度は例年に比べて低かったと思う。
甲子園やオリンピックというコンテンツは、いくらでも時間が潰せるキラーコンテンツであって、それらを堪能していると夏は終わってしまうのだ。
厄介なことにこれらコンテンツが終わると、当事者でもないのに喪失感が大きく、そのうえ個人の思い出には残らない。なぜなら均一化したあくまで情報であるからだ。
なので、動いておけば何か起こり思い出として成立することがあるのでは?という一種の焦りがフラフラ出かけてしまう理由であろう。
今年の甲子園も皆一様に頑張ってはいたのだけれど、メダルというわかりやすい指標があるオリンピックに比べてしまうと見劣りしてしまうことは否めない。4年に一度というプレミアム感もある。
今年の夏のペースメーカーは、甲子園ではなくオリンピックだったのだ。
なので新しい環境下での夏休みというイベントだったが、その非日常感が甲子園の数倍も高く、心休まる時間も無いまま結果としてペースを乱されてしまい、このことが夏休みの時間の流れの速さは特徴的だという話の基本となればそれっぽく聞こえる。
来年以降もきっとすぐに夏は終わってしまうのだろう。
早かったなぁと思いながら。
イエスマン
まただいぶ久しぶりの記事になってしまいました。
今回は自分の癖について。
なおしたくてもなおせない
「癖」って、あまり良いときに使われる言葉じゃないですよね。
辞書を引いてもマイナスなニュアンスが含まれているので、
この感覚は間違いではないようです。
僕の考える「癖」は、
- 自覚のあるもの
- ないもの
- 忘れているもの
この3つに大体分けられるのかなと。
1はそれが嫌なら変えればいいし、2は何かのきっかけで認識させられるので、
嫌なら変えようとすればいい。
でも3はけっこう厄介です。
つまり、自覚はあるけどそれを直す気があまりない(=直す必要を感じていない)ので、
ひとたびそれを指摘されるとどうしたらいいのかさっぱりになってしまうんです。
なぜならこれまで対策を考えたことがないからです。
痛いところを突かれた……的な感覚です。
わからないものをわからないと言えない
僕は初めて聞いたことを"なんとなく"理解して、そのままにする癖があります。
表現が難しいんですが、字義通りに受け取るといいますか、
いったん、それをそのままに受け入れてみるということを無意識にやってしまうんですね。
昔から疑問を持つこと、「なんで?」と思うことがあんまり無く、
目の前の情報の塊を暴飲暴食するのが昔からのスタイルでした。
そこに目的は特になくて、活字やディスプレイに映る文字を
"読んでいる"という感覚が好きなんです。最近気づきました。
ランニングが好き、筋トレが好き、などとあまり変わらないのかな?
と勝手に同一視しています。
今日改めて自分はそういう癖があるということを思い知らされました。
パッと聞いて、それに対して「なんで?」とか「ここがわからん」と
はっきり的確に質問する力が壊滅的でして。
ちゃんとまじめに考えろよ!と言われたらそこまでなのかもしれませんが、
しっかり理解しようと頑張っています。
自分の範疇を越えたものを、音声で理解する力がひょっとすると著しく低いのかな?とも思ったりします。英語のリスニングは病気レベルで聞き取れないですし。
わからないものをわからないと言えない、は正確ではなくて、
正しくはいま聞いていることは理解できているのか、理解できていないのか
ここの判断が一瞬でついていないため、要領が悪くその場で解決できないことに繋がっているように思いました。
イメージとしては、ダンボール箱とその中に入っているみかんの存在は認識しているけど、そのダンボール箱に何が書かれていてみかんは甘いのかどうか、こういった本質的なところを理解し判断することができていません。
そこまで一瞬で判断できるようにするのは少し違うかもしれませんが。
最後に
100%興味関心がないと、捉えかたを変えることができないのだとしたら
この先むちゃくちゃ生きにくい気がします。
仮に興味がないんだとしても、一生懸命考えたらその分だけ何かしら答えが出てきて欲しいものです。
ここまでこだわりなく漫然と生きてきたツケですね。
右脳と左脳のバランスがすこぶる悪い僕の脳が、少しでもバランスがよくなることを祈りながら床に着きたいと思います。