簡易書留

世間知らずが書き散らすブログ

夢をあきらめた人を見るのがつらい

世の中にはいろんな人がいる。

日々仕事をしていると、目に飛び込んでくるそれぞれの人生。

順風満帆にみえるソレ、少し道草をしたソレ、夢を追いかけていたソレ。

決して同じ物語はなく、それぞれが踏ん張って、こらえて、どうにか歩んできたのだ。

ぼくらは、一人ひとりがどんな意図を持ってそうやって歩いてきたのか、完璧に把握することはできない。否、必要ないと思っている。

別にそれらを知ることで何かが変わるわけではなく、最低限知っておかないといけないヒアリング項目があって、結局はそこに沿って見かけ上の希望や意志をもとに叶いそうな選択肢を提案するだけだ。

 

世の中にはいろんな人がいる。

夢を追いかけ、諦めた人。ぼくはそれを見るのがいちばんつらい。

諦めた事情はさまざまだ。

それは単純に生きるため(=お金を稼ぐため)であったり、もしかするとそこまで悲観するものではなくて、やりきった末の意思決定なのかもしれない。

それでも「現実」という重すぎる拳が顎に入り、リングにタオルが投げ込まれたから負た、という事実には変わりない。

そして現実に引き戻された彼らには、誰に謝っているのかわからない謝罪の言葉のようなものが免罪符として与えられ、「あのときは若かったので…」と後々笑い話か武勇伝として語られるかつての「夢」を捨てることを強いられる。

 

もちろん夢を追うだけで生きていくことはできない。

諦めた人だからこそ、こんなことは百も承知だと思う。

それでも、こっち側に来るにあたり夢を追いかけていたあの頃と違い、いまは心機一転、真人間です、ということを訓辞として受け入れ生きていくのはどれだけ大変なことなのだろう。

そして大抵の場合、その夢は評価されることはない。むしろマイナス評価に直結する。

例外は、夢を追いかけていた期間が学生という身分のときなだけ。

それでもひとたび社会に出てしまえば、その夢を通して得られたものはせいぜい宴会芸か業務外のどうでもいいイベント時にしか発揮されない。

 

みんながスーパースターになれるわけではない。そんなことはわかっている。いやわかっているつもりなんだろう、こういうエントリを書いているということは。

本人が納得して「諦めた」のではなく「卒業」なのだという場合は、とやかく言われるのは心外だと思う。それであればその選択を応援するべきだ。

けれど、そうではない人もおそらく多くいて、仕方なく普通(と思われる)道に戻ってきた人に社会はすごく厳しい。

普通から外れることは簡単なのに、戻る難しさはとてつもない。

この難しさには自身の気持ちのスタンスもそうだが、世間の目という厄介な問題も含まれることが多い。難しさの本質はそこなのかもしれない。

 

数は多くないかもしれないが、この難題に取り組んでいる人は増えてきている。

起業のエコシステム作りはこれの代表だと思う。

たぶんこのままでは何も変わらないし、変わったとしても100年後とかそんな先だったら意味がない。

いま解決に向けて動いている方々は、テクノロジーを中心に人々の生活様式を急激に変化させることで世の中の仕組みも変えてしまおうという狙いなのだと思う。

現状、これがいちばん効果のあるやり方だと思う。マジョリティの考え方を変えるには外堀を埋めていくのもひとつのやり方だが、ひとつ風穴をあけてしまうことで急速に伝播させ、いまの考え方が時代遅れだと思わせること、そうでもしないと結局は何も変わらない。それこそ100年はかかる。

 

100年も待ってられないので、そしてぼく自身が(勝手に)つらい思いをしないで済むように、この問題に対して解を導くことを死ぬまでに絶対にやりたい。

「自信を持て」という言葉の残酷さ

自分に自信がない

僕は自分に自信がありません。

自己肯定感も低い。

会社に入って丸4ヶ月が経ちましたが、成長実感も無い。

毎日、うまくいかないこと・出来なかったことに対する失望感に苛まれています。

前向きに働くことができていないので、自分自身の課題を解決しよう、できるようになろう、という考えに至る前に目の前のことをいかにこなすか?という非常に近視眼的な思考しかできていません。

新入社員なんだからもっと気楽にやれよ、という話かもしれませんが、そもそも自信がない=自己評価が低い=成功体験が圧倒的に少ない、という等式が成り立ってしまっている以上、いまやっていることが上手くいくようになったら自分にとってどうなのか?ということがイメージできていなく(=自信が持てている状態になるイメージがない)、結果うまくできてないことにフォーカスしてしまい、良い解決策を思いつけるような発想力の妨げになっているように思います。

このままじゃマズいという焦燥感

 加えて、いまやっていることに100%納得感の無いことが意欲の減退に拍車を掛けています。一定の社会的価値はわかるものの、そこに懸けるほどの熱意は湧いてきません。覚悟感がない、未だに学生気分が抜けていない、などと言われてしまえばぐうの音も出ないため「自分が悪い」ループに入ってしまっています。

いまの職種が自分に本当に向いていないのか?仮に環境を変える、ないしは異動で職種を変えたところでうまくいくことになるのか?ここを明確に線引きできていないため、非常にモヤモヤしています。

青い鳥症候群

自信がなく、自己肯定感の低いなかで仕事に集中しきれていないこの状況を、早いタイミングで見切りをつけ、他でうまくやることを夢見る。ざっくり現状をまとめるとこうなのではないかと思います。

でもこれはいわゆる「青い鳥症候群」の傾向が非常に強い、とも言えます。現実を直視せず、理想を追い求め続けることで結局にっちもさっちもいかなくなってしまう。こんな状態はかなり悲惨だと思うわけです。とは言っても、現状が本当に合っていないときはどうなってしまうんだと。語弊を恐れずに言えば、損切りができなかったために無駄な時間を過ごしてしまう可能性も十分にあるよね、ということです。

それだけはどうしたって避けたいわけです。人生は長いかもしれませんが、何事かを成すにはあまりに短い。要するに不用意な失敗はしたくないのです。

まとめ

自分に自信がないと冒頭書きましたが、それなら自信をつけるために何をしてるの?と聞かれても何も出てきません。環境のせいにして泣き言をいうのは簡単ですが、それを変えようという意識はどこかにあったのだろうか?これらに正面きって向き合っておらず、ただ自己嫌悪のスパイラルにはまってしまっている。自分を変えるには、付き合う人を変えるか、環境を変えるか、みたいな話もありますが、圧倒的に環境を変えることが抜本的な解決方法なのです。環境を変えず、ただ日々を漫然と過ごしている現状は心の底から「変えたい」と思っていないだけなのではないだろうか。かなり曖昧な一方で負の感情は強くなっているこの状況で、自信もへったくれもありません。無くてもいいからとりあえず自信を持ってみることの大切さは理解できますが、理解と行動には隔たりがあります。きちんと接続するには問題を細かくしていかなくてはいけません。

結局、自信は気持ちとほぼ同義で、そもそも気持ちがない人間にはその人自身を殺してしまうほどのインパクトがある。そう感じるわけです。

人生は意志で何とかなる

人生で成し遂げたいことの多くは意志でどうにかなる。

営業成績を上げたければ何とかして上げようと思うこと、スポーツを上達したいと思えば練習を頑張る気持ちを持つこと。何でも、大抵のことは気持ちでどうにかなる。ただ願うだけではダメで、行動をしなくては変わらない。しかしながら意志が無ければ行動に落とすことは難しく、その意味では意志が大切なうえ、極論言えば意志さえ固めてしまえばほぼ成功みたいなものだ。

その道で一握りの人間になれるかは、運と才能の両方が必要だ。これは絶対に間違いない。この但し書きが無いとするなら世の中にはイチローが溢れ、地元のサッカーチームはメッシだらけで、意識の高い大学生は皆ザッカーバーグになれることになってしまう。なので運と才能が必要ない、なんてことは絶対にあり得ないし、意志と行動が揃ってさえいれば一流になれるとも限らない。それでも二流ぐらいにはなれる可能性は高い。何故なら意志を持って行動する人は、それを継続して行うことができるからだ。継続して行えば、大抵のことはそこそこできるようになる。そうすると、初めは嫌だったかもしれないそれも「そこそこ楽しい」ものに変わるだろう。うまくいけば、中の上ぐらいの実力はつくかもしれない。

こういった話を違う事象に当てはめるのであれば、このようにして多くの人は社会に適応するようになる。人間は慣れることに強い。慣れてしまえば手なりでできることも増える。身につけたことをそのまま使えば結果は出るし、少し工夫すれば違う結果が得られる。これほど精神衛生上、また生産性的にも良いことはない。

意志を持って動くことで、物事は前進する。

 

僕は社会に出て半年が経過した。インターン時代も含めれば1年を超えている。であるにもかかわらず、成長実感は無く、実際に成長もしていないのだと思う。強いて言えば多少業務の進め方に慣れ、効率が良くなっているぐらいだろう。ここには意志がない。だから行動が伴わず、結果も得られない。至極シンプルな構図故に、何が足りないのかがよくわかる。ここまでやってきて意志を持てていないことを考えると、正直向いていないと判断しても仕方ないのではないだろうか。向いていない判定を出されるのは全く怖くないし、むしろ決めて欲しいとさえ思っている。

意志が行動において、本当に重要なんだと感じたこの半年間だった。ただひたすらに、才能よりも何よりも意志を持てるものを探し続けたい。

もう夏が終わる

もう夏が終わる

どこか浮き足立ったお盆が、風物詩ともいえる渋滞情報と共に過ぎ去り、気づけば8月も残り約1週間となった。

物心ついてから、正確には小学校に通い始めたぐらいから、夏休みの時間の流れは一定ではないなと感じていた。

夏休み初期(7月後半)は時間の流れはゆっくりで、8月1週目から少しずつペースが上がり、甲子園がいつの間にか始まり少し目を話した隙に決勝を迎えている。ここまでくると夏休みは折り返しを過ぎていて、あっという間に9月1日がやってくる。

今年から社会に出たことで、これまでのように長い夏休みを取ることは無理になったのだけれど、8月中旬から下旬にかけてのスピード感の変わらなさには若干戸惑った。

「夏らしいことをしなくちゃ」という使命感は、もともと強くないのだけれど、今年は少しそういう気持ちがあった。とはいっても、派手にプールで騒ぐとか、海で調子こくとか、そういったことは一切やらずただ夏を感じたいという気持ちが強かった。

家でぐだぐだしていることがもったいないと考え、用事もないのにフラフラ外に出ることが増えた背景には、「あっという間に終わる」という事実と感覚を鈍らせるためなのかもしれない。

今年はリオ五輪があったおかげで、テレビの前に張り付こうと思えばいくらでも張り付ける年だった。

ただし、一方で甲子園の注目度は例年に比べて低かったと思う。

甲子園やオリンピックというコンテンツは、いくらでも時間が潰せるキラーコンテンツであって、それらを堪能していると夏は終わってしまうのだ。

厄介なことにこれらコンテンツが終わると、当事者でもないのに喪失感が大きく、そのうえ個人の思い出には残らない。なぜなら均一化したあくまで情報であるからだ。

なので、動いておけば何か起こり思い出として成立することがあるのでは?という一種の焦りがフラフラ出かけてしまう理由であろう。

今年の甲子園も皆一様に頑張ってはいたのだけれど、メダルというわかりやすい指標があるオリンピックに比べてしまうと見劣りしてしまうことは否めない。4年に一度というプレミアム感もある。

今年の夏のペースメーカーは、甲子園ではなくオリンピックだったのだ。

なので新しい環境下での夏休みというイベントだったが、その非日常感が甲子園の数倍も高く、心休まる時間も無いまま結果としてペースを乱されてしまい、このことが夏休みの時間の流れの速さは特徴的だという話の基本となればそれっぽく聞こえる。

来年以降もきっとすぐに夏は終わってしまうのだろう。

早かったなぁと思いながら。

イエスマン

まただいぶ久しぶりの記事になってしまいました。

今回は自分の癖について。

 

なおしたくてもなおせない

「癖」って、あまり良いときに使われる言葉じゃないですよね。

辞書を引いてもマイナスなニュアンスが含まれているので、

この感覚は間違いではないようです。

 

僕の考える「癖」は、

  1. 自覚のあるもの
  2. ないもの
  3. 忘れているもの

この3つに大体分けられるのかなと。

1はそれが嫌なら変えればいいし、2は何かのきっかけで認識させられるので、

嫌なら変えようとすればいい。

でも3はけっこう厄介です。

つまり、自覚はあるけどそれを直す気があまりない(=直す必要を感じていない)ので、

ひとたびそれを指摘されるとどうしたらいいのかさっぱりになってしまうんです。

なぜならこれまで対策を考えたことがないからです。

痛いところを突かれた……的な感覚です。

 

わからないものをわからないと言えない

僕は初めて聞いたことを"なんとなく"理解して、そのままにする癖があります。

表現が難しいんですが、字義通りに受け取るといいますか、

いったん、それをそのままに受け入れてみるということを無意識にやってしまうんですね。

昔から疑問を持つこと、「なんで?」と思うことがあんまり無く、

目の前の情報の塊を暴飲暴食するのが昔からのスタイルでした。

そこに目的は特になくて、活字やディスプレイに映る文字を

"読んでいる"という感覚が好きなんです。最近気づきました。

ランニングが好き、筋トレが好き、などとあまり変わらないのかな?

と勝手に同一視しています。

 

今日改めて自分はそういう癖があるということを思い知らされました。

パッと聞いて、それに対して「なんで?」とか「ここがわからん」と

はっきり的確に質問する力が壊滅的でして。

ちゃんとまじめに考えろよ!と言われたらそこまでなのかもしれませんが、

しっかり理解しようと頑張っています。

自分の範疇を越えたものを、音声で理解する力がひょっとすると著しく低いのかな?とも思ったりします。英語のリスニングは病気レベルで聞き取れないですし。

 

わからないものをわからないと言えない、は正確ではなくて、

正しくはいま聞いていることは理解できているのか、理解できていないのか

ここの判断が一瞬でついていないため、要領が悪くその場で解決できないことに繋がっているように思いました。

イメージとしては、ダンボール箱とその中に入っているみかんの存在は認識しているけど、そのダンボール箱に何が書かれていてみかんは甘いのかどうか、こういった本質的なところを理解し判断することができていません。

そこまで一瞬で判断できるようにするのは少し違うかもしれませんが。

 

最後に

100%興味関心がないと、捉えかたを変えることができないのだとしたら

この先むちゃくちゃ生きにくい気がします。

仮に興味がないんだとしても、一生懸命考えたらその分だけ何かしら答えが出てきて欲しいものです。

ここまでこだわりなく漫然と生きてきたツケですね。

 

右脳と左脳のバランスがすこぶる悪い僕の脳が、少しでもバランスがよくなることを祈りながら床に着きたいと思います。

日本の人口が減ることでコミュニケーションのありかたが変わるかもしれない

こんにちは。syokenです。

 

突然ですが、僕は英語が話せません。

正確に言うと、日本語しか話せません。

日本に住んで生活するぶんには全く不自由しないですが、

一方で海外に行くとこれがけっこう困ります。

当たり前だろ!という話ですが、

今回は少し視点を変えて、もしかしたら将来日本にいながら言語に困るということが起きるのでは????

と思ったので記事を書いておくことにしました。

 

 人口が減る=話者が減る

日本の人口は今後どんどん減っていくそうです。

「日本 人口」と雑にGoogle検索してみるだけでも、

年々数が減っていることがわかるグラフが出てきたり、

2050年には人口が9000万人を割るなんていう推計も出てるそうです。

これまでは「人口が減って日本ヤバイ!」みたいな話を聞いても、あまりピンときていなかったのが正直なところでした。

でもある日ふと、人口が減るってことは単純に考えるとその言語を話す人間が減るってことで、そうなると日本語しか話せない人間は生き方が制限されてくるんじゃないか?と思ったわけです。

 

 日本語消滅…?

言語は話す人、伝える人がいなくなれば使われることはなくなります。

ある少数民族が話す言葉には、書き言葉が無いためにその民族が絶えてしまう瞬間がその言語が死ぬときなのだ、ということも聞いたことがあります。

実際になくなってしまった言語もあります。

日本語が絶滅してしまうことは、さすがに無いだろうとは思いますが、

日本語を使える人が減ってしまうとコミュニケーションに困る場面が増えるということになるとは思います。

国内でできることはだんだんと少なくなり、ビジネスにおいてはますます諸外国と関わり、海外に進出していかないとお金を稼ぐことが難しくなるのではないかと思います。

となると一緒に仕事をする人は日本語を話さない・話せないことが普通になるでしょう。

仕事をしている人が人口の過半を占めるということを考えれば、

仕事で日本語を使う機会が減る=日本語がなくなる

ということになるはずです。

 

じゃあどうやってコミュニケーションとるの?

基本的には日本語が通じる一方で、ゆるやかにその「輪」が小さくなります。

同時にテクノロジーの発展により、言語の壁はどんどん低くなり、誰とでも簡単にコミュニケーションが取れるようになる、そんな世界になるのではないでしょうか。

例えば、脳とデバイスを直接接続することが可能になれば音に頼るコミュニケーションは姿を消してしまうのではないだろうか。

イメージ的には会話は常にLINEのようなチャット形式で、テキストベースのやり取りになるという感じです。

このテキストも翻訳機能が飛躍的に改善されることで、受け手に合ったカタチで受信できるようになります。

ここまできたら、日本語や英語といった言語の境目がなくなり、全ての人間が共通の言語で会話する非常にフラットで中立的な世の中に変化することでしょう。

コミュニケーションコストもかなり低くなるはずです。

 

 とは言っても

ここまでSFな世界になるのは、さすがに生きている間にはないだろうと思います。

そもそも言語がなくなることは文化の大半も失われてしまうことになるため、

学者の方々やそれに耐えられない一般人が抵抗するはずです。

僕自身もテクノロジーの発展に興味がある一方で、コミュニケーションや言語が大きく変容していくことには抵抗感を覚えるほうですし。

ひょっとすると、いまの時代に車を所有すること同様に、言語を学び文化に触れることは必需のものから趣味のものへと変わっていくのかもしれませんね。

いや、もうそうなりつつあるか…

うららかな春の日差しを受けて

タイトル文は僕の出身中学校の卒業式で行われる「呼びかけ」の一フレーズです。

 

 

こんにちは。syokenです。

コツコツ書き続けると宣言したこのブログですが、1記事も書かないうちに3月が終わってしまいました。

もっとマメに文章を書く癖をつけます。

4月こそ頑張ります!

 

さて、3月といえば別れの季節ですね。

僕もこのたび晴れて大学を卒業できました。

高校では先輩・後輩という関係性とは無縁の生活を送っていたので、

今回は人生で初めて先輩や後輩が送り出してくれた卒業式でした。

小学校や中学校のそれはどうなんだ?というと、義務感のある「式典」だと思わざるをえません。予行練習とか死ぬほどやりますし。どうしても感動が薄れてしまうんですよね。

 

ダラダラとした思い出語りはここではやめにして、ブログでは大学生活で得られた学びをまとめておきます。

きちんとした振り返りではありませんが、こういうのは旬が大事なので少々無理やり書くことにします。

 

大学生活で得られたもの3つ

3つにした理由は、「世の中のものごとを説明するときは3つのポイントに分けるとちょうどいい」という何がちょうどいいのかさっぱりわからない、音に聞くプレゼンの極意(?)が頭の片隅に残っていたからです。

言い換えると理由はないということです。

 

さっそく1つ目ですが、「自分は何者でもない」という気付きです。

いきなり意識高い系のようなことを口走ってしまいました。

胃もたれしないうちに先を急ぎましょう。

 

僕は厨二病なので「自分は特殊な才能を持っているに違いない…!」とか、「いまはサクセス・ストーリーの途中だから(キリッ」とか非常に恥ずかしいことを考えたりします。

しかし妄想と現実の違いは非情なもので、特殊な才能を発揮したことや初めから要領よく結果を出した、なんてことは一度もありませんでした。

こうも初めからうまくいったことがないとメンタルにくるものですが、

自分はそういう者だと受け入れ、できることを1つずつ着実に増やしていこうと考えられるようになりました。

 

二つ目は、機会を逃さないことです。

たとえば、「今度飲み行こー!」と言っておきながら行けなかった。

あるいはもっと一緒に遊びたかったのに、なんだかんだできなかった。

 

こうしたことが、4年間を振り返ると結構あるなぁと思いました。

 一度しかできなかったことは、そのときその場にいなかったら起こり得なかったということです。

時間とお金の制約がある以上、全てのイベントに参加することは不可能ですが、やらない後悔ほどしょうもないことはありません。

後回しにせず、いまできることはいまやる、こうした姿勢を忘れないようにしたいものです。

 

最後は、自らで考える癖をつけるということです。

当たり前すぎてあえて書くことに多少の恥ずかしささえあります。

僕はこれまで自分で考えて意思決定をする、言い換えればロジカルシンキングが非常に苦手で実践しようともしていませんでした。

ものごとの因果関係をとらえ、これはどういう仕組みなんだろうか?と考えることはこの先誰も助けてくれない社会を生き抜くために必要な力です。

何事も結局そうなのだと思うのですが、最後に頼りになるのは自分の身ひとつだけ、もっといえば脳みそだけです。

体が貧弱なぶん、脳みその筋トレは怠らないようにします。

 

最後に

これら3つの得られたものをあげました。

得たものというよりは、得た考え方ですね。

何か「モノ」を得たという話ではありませんし。

また時間があればしっかり振り返りたいと思います!

ひとまずこれらを胸に今月から頑張ります!