簡易書留

世間知らずが書き散らすブログ

カード決済はどうしたら主役になれるのか?

日本は現金に対する信頼がすごく厚くて、それを証明するかのように20歳超えてるのにカードを1枚も持っていない、なんて人が身近にいました。別にどんな手段で決済しようと、それは個人の好みであり、とやかく言う筋合いはもちろんありませんがもう少し気軽にカード決済する世の中になってもいいんじゃないか?といつも思っています。

 

僕は基本的にカード決済をメインにしています。かれこれこの生活にしてから2年近く経ちます。2年前、僕の周りでカード決済をメインにしている人はほとんどいませんでした。1人だけカードや電子マネーをフル活用している友達がいましたが、本当に彼ぐらいでした。

今回はカードを使うべき!と鼻息荒く提言するのではなく、「こんなに便利だよ」ということやメリットを淡々と書いていきます。今後もカード決済や電子マネー決済についての記事を書いていくつもりなので、今回はこれにとどめてサクッと終わらせようと思います。。

 

カード決済のいいところ

①一定期間でいくら使ったのか正確に知ることができる

②カードを使うことでグレードが上がり、得する場面も増える

③お金を下ろすためにATMを探すという手間がなくなる

④コンパクトな財布でも問題なく、かさばらなくて済む

⑤現金が足りなくて買えない、ということが起きない

⑥お釣りをいくらにするために〜というような思考を必要としないのでストレスがない

 

ざっと書いてみましたが、①と②が一番わかりやすいと思います。

①はレシートをいちいち家計簿アプリに入力しなくても、履歴がきちんと残っているので意識しなくても管理がなされ、レシートをもらい忘れ記憶に頼って入力するよりよっぽど正確です。

また、意外とわかっていないのかなと感じることが、カードを使おうが現金を使おうが一ヶ月に使っている金額の総量は変わらないことです。

カードはどれくらい使っているかわからなくて怖い、という人もいますが、そういう人は仮に現金しか使っていなくても金額を気にしていない場合が多いと思います。使途不明のお金があるくらいなら、確実に何に使ったかわかるカードや電子マネーのほうがよっぽど理にかなっていると思います。

お金に気を遣っている人ほど、カード決済が向いているはずです。

 

ざっくりメリットを書いていきました。

次回はもう少し掘り下げてカード決済について書いていきます!

大企業がスタートアップに負ける理由

経営陣と現場の考えていることが100%合致して行動していないから。

これに尽きると思います。

僕はいま大企業に勤めているので、大企業の中の人間として、そう思った理由を書いていきます。

 

お互い考えていることがわからない

大企業の定義が何なのだそもそも、という話は一旦置いておきたいのですが、とりあえず従業員数1000名を超える企業とします。

この規模になると、おそらく経営陣は全従業員の顔と名前が一致することはなく、それは従業員側も同様だと思います。社長はわかっても1/5人の取締役はわからない、みたいな。経営陣はより上段の議論をし、現場は日々の数字、KPIの達成に向けて動いていきます。方向性は同じでも細かな部分の思想は同じではないため、結果は出てもどこか一体感がないように感じてしまいます。

思想を同じにしないといけない、というわけではありません。ただ集団でやる以上、個人を取り巻く環境は行動・思考に影響を大きく与えるので、細かなノイズは無いに越したことがないのも事実なのだと思います。したがって、経営陣の目の届く範囲にいる人々が情熱を持ち、同じ方向を向いて仕事をするほうがはるかに突き抜けた結果を残せるのだと感じています。

ウチに閉じこもりがちな大企業の人間

会社に入って思ったことが、会社以外にコミュニティを持っている人って案外少ないんだなということです。

社内の人間と仲良くすることは、仕事を円滑に進めるために有効な方法のひとつだと思いますが、休日までそのコミュニティに属していたら名実ともに会社に属することになります。多様な人間がいることは否定しませんが、一方で似たような価値観の人間が集まっているのが会社でもあり、そうなると必然的に視野が狭くなります。もちろん、社外のコミュニティも往々にして似た価値観を持った人々の集まりですが、共通文脈が「会社」しかない集まりよりもっと広がった文脈を持っている社外コミュニティのほうが得られるものはあると思っています。

その点、社外コミュニティとのつながりをかなり重視するスタートアップでは、情報量や真に重要な学びを得やすいなぁと気づきました。

まとめると

それぞれの思考は違うくせに無理やり仲間であることを確認しまくるのが、大企業の人間の特徴ではと考えています。

仲間であることを確認しまくることの弊害は、その会社の基準(=是とされていること)に合わせようと無意識に頭を使ってしまうことです。これをやり始めると、会社から評価されないこと、されにくいことは意味がないのでやらず、結果としていま流行りの「イノベーティブ人材」なるものが社内にいないということになるのです。

経営陣は現状と理想のギャップを埋めるために方向性を提示しますが、現場ではそれが更に細かい指標や方針になって降りてくるため、ときとしてニュアンスが微妙に異なることもあると思います(伝言ゲームみたいなもので)。こうなると、経営陣の考えていることと現場の考えていることに乖離が起き、全体のバランスを取ることが困難になり一極集中的にマーケットを攻めるスタートアップに負けることになるのです。

前述したことに絡めるなら、経営陣の考えている評価軸とそれに対する現場の考える評価軸に違いが生まれることにより、手段と目的の履き違えが発生してしまうなどという悲劇が起きてしまいます。

まさに企業の雰囲気が180度違うことが、大企業の負ける理由の一番大きな理由なのかもしれません。

もうアラサーが近い

掲題の通りで、アラサーが見えてきた。

四捨五入したら〜的な話なので、本当にアラサーの人には殺されそうなことを言っているけども、それでもカテゴリ的にはそうやって分類されうるという事実がだいぶ堪える。

本当にここまでの人生あっという間で、気づけば大学生活は終わり、社会人1年目も終わりかけ、東京オリンピックまであと3年だ。3年なんてマジであっという間だ。何も考えずに生きていたらすぐに2020年だ。そのとき僕は27歳になろうとしている。

先週末、いつものメンバーの一人と飲食店をはしごしながら他愛もない話をずっとしていた。このときは話が尽きず(というより相手が適切にお題を振ってくるからだと思う)、ファミレスでグダる女子高生グループの気持ちが少しわかったような気がした。違っているのは、僕らが男であることとあくまでサシだったということだ。おしゃべりはグループであると相場が決まっている。

このおしゃべりが個人的にはかなり好きで、なぜならこういう機会があると自分がいかに浅い思考に陥っているか、アウトプットが下手くそか、翻って根本的には何を考えているのか等々、確認しながら内省ができるからである。本当にいい機会だった。

一方で、何も考えず、特に行動も起こさないで過ごしていたら本当に1年あっという間に過ぎてしまうと思い出させてくれた。このとき出てきた自分の言葉は、かなり薄っぺらく、本当に自分が紡ぎ出したものなのか自信がなかった。

今回タイトルにも挙げた、「アラサー」についてもこのタイミングで思い出したのである。年を取ることが極端に嫌だということもないが、自分が意図していないのに重ねてしまっていることには恐怖を覚えるのだ。もはや。

だからその備えとして、常に思考し続けていこうと思った。新年初気づきだった。

 

今年も頑張ろう。

夢をあきらめた人を見るのがつらい

世の中にはいろんな人がいる。

日々仕事をしていると、目に飛び込んでくるそれぞれの人生。

順風満帆にみえるソレ、少し道草をしたソレ、夢を追いかけていたソレ。

決して同じ物語はなく、それぞれが踏ん張って、こらえて、どうにか歩んできたのだ。

ぼくらは、一人ひとりがどんな意図を持ってそうやって歩いてきたのか、完璧に把握することはできない。否、必要ないと思っている。

別にそれらを知ることで何かが変わるわけではなく、最低限知っておかないといけないヒアリング項目があって、結局はそこに沿って見かけ上の希望や意志をもとに叶いそうな選択肢を提案するだけだ。

 

世の中にはいろんな人がいる。

夢を追いかけ、諦めた人。ぼくはそれを見るのがいちばんつらい。

諦めた事情はさまざまだ。

それは単純に生きるため(=お金を稼ぐため)であったり、もしかするとそこまで悲観するものではなくて、やりきった末の意思決定なのかもしれない。

それでも「現実」という重すぎる拳が顎に入り、リングにタオルが投げ込まれたから負た、という事実には変わりない。

そして現実に引き戻された彼らには、誰に謝っているのかわからない謝罪の言葉のようなものが免罪符として与えられ、「あのときは若かったので…」と後々笑い話か武勇伝として語られるかつての「夢」を捨てることを強いられる。

 

もちろん夢を追うだけで生きていくことはできない。

諦めた人だからこそ、こんなことは百も承知だと思う。

それでも、こっち側に来るにあたり夢を追いかけていたあの頃と違い、いまは心機一転、真人間です、ということを訓辞として受け入れ生きていくのはどれだけ大変なことなのだろう。

そして大抵の場合、その夢は評価されることはない。むしろマイナス評価に直結する。

例外は、夢を追いかけていた期間が学生という身分のときなだけ。

それでもひとたび社会に出てしまえば、その夢を通して得られたものはせいぜい宴会芸か業務外のどうでもいいイベント時にしか発揮されない。

 

みんながスーパースターになれるわけではない。そんなことはわかっている。いやわかっているつもりなんだろう、こういうエントリを書いているということは。

本人が納得して「諦めた」のではなく「卒業」なのだという場合は、とやかく言われるのは心外だと思う。それであればその選択を応援するべきだ。

けれど、そうではない人もおそらく多くいて、仕方なく普通(と思われる)道に戻ってきた人に社会はすごく厳しい。

普通から外れることは簡単なのに、戻る難しさはとてつもない。

この難しさには自身の気持ちのスタンスもそうだが、世間の目という厄介な問題も含まれることが多い。難しさの本質はそこなのかもしれない。

 

数は多くないかもしれないが、この難題に取り組んでいる人は増えてきている。

起業のエコシステム作りはこれの代表だと思う。

たぶんこのままでは何も変わらないし、変わったとしても100年後とかそんな先だったら意味がない。

いま解決に向けて動いている方々は、テクノロジーを中心に人々の生活様式を急激に変化させることで世の中の仕組みも変えてしまおうという狙いなのだと思う。

現状、これがいちばん効果のあるやり方だと思う。マジョリティの考え方を変えるには外堀を埋めていくのもひとつのやり方だが、ひとつ風穴をあけてしまうことで急速に伝播させ、いまの考え方が時代遅れだと思わせること、そうでもしないと結局は何も変わらない。それこそ100年はかかる。

 

100年も待ってられないので、そしてぼく自身が(勝手に)つらい思いをしないで済むように、この問題に対して解を導くことを死ぬまでに絶対にやりたい。

「自信を持て」という言葉の残酷さ

自分に自信がない

僕は自分に自信がありません。

自己肯定感も低い。

会社に入って丸4ヶ月が経ちましたが、成長実感も無い。

毎日、うまくいかないこと・出来なかったことに対する失望感に苛まれています。

前向きに働くことができていないので、自分自身の課題を解決しよう、できるようになろう、という考えに至る前に目の前のことをいかにこなすか?という非常に近視眼的な思考しかできていません。

新入社員なんだからもっと気楽にやれよ、という話かもしれませんが、そもそも自信がない=自己評価が低い=成功体験が圧倒的に少ない、という等式が成り立ってしまっている以上、いまやっていることが上手くいくようになったら自分にとってどうなのか?ということがイメージできていなく(=自信が持てている状態になるイメージがない)、結果うまくできてないことにフォーカスしてしまい、良い解決策を思いつけるような発想力の妨げになっているように思います。

このままじゃマズいという焦燥感

 加えて、いまやっていることに100%納得感の無いことが意欲の減退に拍車を掛けています。一定の社会的価値はわかるものの、そこに懸けるほどの熱意は湧いてきません。覚悟感がない、未だに学生気分が抜けていない、などと言われてしまえばぐうの音も出ないため「自分が悪い」ループに入ってしまっています。

いまの職種が自分に本当に向いていないのか?仮に環境を変える、ないしは異動で職種を変えたところでうまくいくことになるのか?ここを明確に線引きできていないため、非常にモヤモヤしています。

青い鳥症候群

自信がなく、自己肯定感の低いなかで仕事に集中しきれていないこの状況を、早いタイミングで見切りをつけ、他でうまくやることを夢見る。ざっくり現状をまとめるとこうなのではないかと思います。

でもこれはいわゆる「青い鳥症候群」の傾向が非常に強い、とも言えます。現実を直視せず、理想を追い求め続けることで結局にっちもさっちもいかなくなってしまう。こんな状態はかなり悲惨だと思うわけです。とは言っても、現状が本当に合っていないときはどうなってしまうんだと。語弊を恐れずに言えば、損切りができなかったために無駄な時間を過ごしてしまう可能性も十分にあるよね、ということです。

それだけはどうしたって避けたいわけです。人生は長いかもしれませんが、何事かを成すにはあまりに短い。要するに不用意な失敗はしたくないのです。

まとめ

自分に自信がないと冒頭書きましたが、それなら自信をつけるために何をしてるの?と聞かれても何も出てきません。環境のせいにして泣き言をいうのは簡単ですが、それを変えようという意識はどこかにあったのだろうか?これらに正面きって向き合っておらず、ただ自己嫌悪のスパイラルにはまってしまっている。自分を変えるには、付き合う人を変えるか、環境を変えるか、みたいな話もありますが、圧倒的に環境を変えることが抜本的な解決方法なのです。環境を変えず、ただ日々を漫然と過ごしている現状は心の底から「変えたい」と思っていないだけなのではないだろうか。かなり曖昧な一方で負の感情は強くなっているこの状況で、自信もへったくれもありません。無くてもいいからとりあえず自信を持ってみることの大切さは理解できますが、理解と行動には隔たりがあります。きちんと接続するには問題を細かくしていかなくてはいけません。

結局、自信は気持ちとほぼ同義で、そもそも気持ちがない人間にはその人自身を殺してしまうほどのインパクトがある。そう感じるわけです。

人生は意志で何とかなる

人生で成し遂げたいことの多くは意志でどうにかなる。

営業成績を上げたければ何とかして上げようと思うこと、スポーツを上達したいと思えば練習を頑張る気持ちを持つこと。何でも、大抵のことは気持ちでどうにかなる。ただ願うだけではダメで、行動をしなくては変わらない。しかしながら意志が無ければ行動に落とすことは難しく、その意味では意志が大切なうえ、極論言えば意志さえ固めてしまえばほぼ成功みたいなものだ。

その道で一握りの人間になれるかは、運と才能の両方が必要だ。これは絶対に間違いない。この但し書きが無いとするなら世の中にはイチローが溢れ、地元のサッカーチームはメッシだらけで、意識の高い大学生は皆ザッカーバーグになれることになってしまう。なので運と才能が必要ない、なんてことは絶対にあり得ないし、意志と行動が揃ってさえいれば一流になれるとも限らない。それでも二流ぐらいにはなれる可能性は高い。何故なら意志を持って行動する人は、それを継続して行うことができるからだ。継続して行えば、大抵のことはそこそこできるようになる。そうすると、初めは嫌だったかもしれないそれも「そこそこ楽しい」ものに変わるだろう。うまくいけば、中の上ぐらいの実力はつくかもしれない。

こういった話を違う事象に当てはめるのであれば、このようにして多くの人は社会に適応するようになる。人間は慣れることに強い。慣れてしまえば手なりでできることも増える。身につけたことをそのまま使えば結果は出るし、少し工夫すれば違う結果が得られる。これほど精神衛生上、また生産性的にも良いことはない。

意志を持って動くことで、物事は前進する。

 

僕は社会に出て半年が経過した。インターン時代も含めれば1年を超えている。であるにもかかわらず、成長実感は無く、実際に成長もしていないのだと思う。強いて言えば多少業務の進め方に慣れ、効率が良くなっているぐらいだろう。ここには意志がない。だから行動が伴わず、結果も得られない。至極シンプルな構図故に、何が足りないのかがよくわかる。ここまでやってきて意志を持てていないことを考えると、正直向いていないと判断しても仕方ないのではないだろうか。向いていない判定を出されるのは全く怖くないし、むしろ決めて欲しいとさえ思っている。

意志が行動において、本当に重要なんだと感じたこの半年間だった。ただひたすらに、才能よりも何よりも意志を持てるものを探し続けたい。

もう夏が終わる

もう夏が終わる

どこか浮き足立ったお盆が、風物詩ともいえる渋滞情報と共に過ぎ去り、気づけば8月も残り約1週間となった。

物心ついてから、正確には小学校に通い始めたぐらいから、夏休みの時間の流れは一定ではないなと感じていた。

夏休み初期(7月後半)は時間の流れはゆっくりで、8月1週目から少しずつペースが上がり、甲子園がいつの間にか始まり少し目を話した隙に決勝を迎えている。ここまでくると夏休みは折り返しを過ぎていて、あっという間に9月1日がやってくる。

今年から社会に出たことで、これまでのように長い夏休みを取ることは無理になったのだけれど、8月中旬から下旬にかけてのスピード感の変わらなさには若干戸惑った。

「夏らしいことをしなくちゃ」という使命感は、もともと強くないのだけれど、今年は少しそういう気持ちがあった。とはいっても、派手にプールで騒ぐとか、海で調子こくとか、そういったことは一切やらずただ夏を感じたいという気持ちが強かった。

家でぐだぐだしていることがもったいないと考え、用事もないのにフラフラ外に出ることが増えた背景には、「あっという間に終わる」という事実と感覚を鈍らせるためなのかもしれない。

今年はリオ五輪があったおかげで、テレビの前に張り付こうと思えばいくらでも張り付ける年だった。

ただし、一方で甲子園の注目度は例年に比べて低かったと思う。

甲子園やオリンピックというコンテンツは、いくらでも時間が潰せるキラーコンテンツであって、それらを堪能していると夏は終わってしまうのだ。

厄介なことにこれらコンテンツが終わると、当事者でもないのに喪失感が大きく、そのうえ個人の思い出には残らない。なぜなら均一化したあくまで情報であるからだ。

なので、動いておけば何か起こり思い出として成立することがあるのでは?という一種の焦りがフラフラ出かけてしまう理由であろう。

今年の甲子園も皆一様に頑張ってはいたのだけれど、メダルというわかりやすい指標があるオリンピックに比べてしまうと見劣りしてしまうことは否めない。4年に一度というプレミアム感もある。

今年の夏のペースメーカーは、甲子園ではなくオリンピックだったのだ。

なので新しい環境下での夏休みというイベントだったが、その非日常感が甲子園の数倍も高く、心休まる時間も無いまま結果としてペースを乱されてしまい、このことが夏休みの時間の流れの速さは特徴的だという話の基本となればそれっぽく聞こえる。

来年以降もきっとすぐに夏は終わってしまうのだろう。

早かったなぁと思いながら。