ヤフーはすごい
今回はやっぱりヤフーってすごいんだな、という話です。
僕がインターネットに触れ始めた10年と少し前は、ヤフーがブイブイ言っていた時代でした。IEのスタートページは当然Yahoo JAPANでしたし、ブラウザを開いてまずはYahoo!ニュースを見るのが日課でした。初めて作ったメールアドレスはYahoo!メールです。メールと併用してYahoo!メッセンジャーも使っていました。とにかく、僕のインターネットの中心はヤフーだったことは間違いありません。
しかし段々と知恵がついてくると、どうやらヤフー以外にも検索エンジンを提供しているグーグルというのもあるらしいということを知りました。しかも、グーグルのほうが検索精度が高いらしい…。ものは試しだ!まず使ってみよう!無料だし!ということで検索はグーグル経由にシフトしていきました。そのうちYouTubeを見るようになり、2ちゃんねる、ニコニコ動画、とインターネットの楽しいところにどんどん入り込むようになり、無駄に情報を得た僕は完全に『Google最高!ヤフー(笑)』といった具合で、Google信者になりました。
こうなった理由は結構シンプルで、類似のサービスだったらグーグルが提供しているもののほうがいい、というただそれだけです。
一番顕著だったのはメールです。
高校生になると携帯のキャリアメールがメインだったので、PCからメールを送る機会は極端に減りましたが、デザインの見やすさやファイルの添付のしやすさ、さらに言うとGoogleアカウントを作っておくことで、各種サービスの利便性が上がることも大きな魅力でした。
決定的だったのは、スマホに変えたときです。
スマホ=小さなPC、という認識でいたので、PCを開かなくてもYouTubeが見れたりGmailを確認できたり、GoogleDriveが使えるなど一気にグーグルの時代が来たと思いました。
しかもヤフーは当時アプリがイケていなくて、グーグルのほうが100倍使いやすかったんですよね。この時点でメインを完全にグーグルに変え、今日まで快適にインターネットを使ってきました。
ですが最近、ヤフーもアプリがイケてきて、昔はメールの閲覧しかできなかったメールアプリは返信も送信もできるようになり、乗換案内はUIが改善され、天気アプリに至っては雨雲レーダーなるものまで実装されており、圧倒的にユーザーにとって使いやすくなりました。
一時期ヤフーはアプリ化の波に乗り遅れたと言われ、実際に会社としてもその傾向を認めていましたが、きちんと改修してきたのが本当に素晴らしいと思いました。
アプリが微妙だったころは、iPhoneプリインストールの天気アプリの方がいいと思っていましたが、今ではYahoo!天気のほうが100倍わかりやすいです。
アプリのクオリティを上げていくはすごく大変なことだったと思いますが、今後も改修を重ねることで、どんなアプリになるのかがすごく楽しみです。
ヤフーにインターネットを教えてもらった身としては、純粋に嬉しい流れです。
今後も控えめにいいものをリリース頂きたいです!
今回はこの辺で。
「これ地毛なんですよ」と答えることにいい加減飽きてきた
僕は地毛が茶髪です。しかもけっこう明るい。「自分あるある」なのが、洋服屋で姿見を見るとガンガンに照らしてくる明かりのせいで、自分でも驚くほどに茶髪だと認識する瞬間です。普段過ごしていると、あまりにもこの色が自然過ぎて茶髪であることを忘れるというか。自分の中の茶色の想定を超えてくるほどに明るいときがあって、これは初対面の人に驚かれても仕方ないなぁと思っていました。
これまで地毛が茶髪であることで、重大な不利益を被ったことは無いのですが、もしかしたら知らないうちにマイナスになっていたのかもしれません。これまで、事あるごとに「それ地毛なの?」と聞かれることは多くあり、そのたびに何故か申し訳なさそうにそうなんですよと答えていました。大学に入ったぐらいから、他人からの評価は気にしないように生きてきたのですが、カミングアウトするときの謎の後ろめたさはひょっとすると他人からの評価に怯えていたためかもしれません。恥ずかしいであったり、嫌だと思うことは一度も無いのですが、これはダメなことなんだなとなんとなく思うことはあって。悲しさとも恥ずかしさとも似つかない感情は、これまで幾度となく掛けられた質問がきっかけになって溢れてきました。
社会に出て、一応職業は営業としてお客様と対峙して、いわば自分がその会社の顔となっているいま現在、「それ地毛なの?」という質問は一層重くのしかかってきて、毎度毎度答えることも面倒なうえに嫌気が差してきました。
どうしてこんなに聞かれるのだろう?と小学生みたいな疑問を持っていたのですが、結論はステレオタイプって怖いなということでした。いきなり論理飛躍があったので、説明していきます。
人間は他人を意味有るもの(先輩、友人など)として認識したいとき、自分が分類しようとしている項目の想定物を考えながら、コミュニケーションを取ったり情報を収集するのだと考えました。例えば、あなたに甥がいたとします。今回会うのが初めてで、彼は小学生であるという情報以外は何も知らないとします。この状況で多少仲良くなろうと思ったら、オープン・クエスチョンから段々と人物像の輪郭を掴んでいって、「こういう子なんだ」という認識をするはずです。このとき、通っている習い事がフィギュアスケートでその傍らで日能研に通いながら家では小説を書いています、といった情報が得られたとしてもこっちが想像している小学生像とはあまりにもかけ離れていて、なんか凄い子という認識しかできないと思います。つまり、自分が分類しようとした「小学生」には当てはまらなかったのですが、こういう予想を超えてきたとき、自分の持っていたステレオタイプに相手が当てはまらなかったとき、人間は違和感を覚えるのです。
違和感を覚えると、言葉の端々や表情、態度などが変わり受け手はそれを敏感に察知します。その違和感を悪いものだと受け取ってしまい、相手のステレオタイプに合わせなくちゃという強迫観念が生まれることで、冒頭に感じていた謎の後ろめたさが発生するのです。
したがって、これは地毛です、と答えることは相手にとって想定外であって、僕はステレオタイプではないということになり、異質なものと認識されるケースが多々あるんだと感じました。
サラリーマンで、営業で、茶髪のやつは普通いなくて。みんなの普通を裏切っているから質問をされるのであって。見た目はたしかに大事だし、印象や容姿はコミュニケーションの円滑さを左右する重要な要素です。あまりにも外れた様子でなければ、それは黙って許容する意識があるべきだと思います。容姿のアリ・ナシ話になると、だいぶこじれるのでやめますが、これだけは言いたいことは茶髪がダメというのであれば、白髪はどうなんだ?と思いますし、もっと言えば髪の毛について言及することは肌の色や身長の高低なんかと同じくくりだと思っています。営業なのに肌が黒い(=黒人)のはよくないんじゃない?とは言わないですし、お前は身長が高いからお客様ウケがいい、とかいう意味分からないことは言わないはずです。なので、思考・認識の物差しにもっと余裕をもたせ、営業ならピシッとしろ!(これが大事なのは分かった上です)のような曖昧なステレオタイプは、取っ払ったほうがグローバル社会を生きるにあたっても大事なことなのではないかと思います。見た目が全然違う人なんてザラですし。
以上、黒染めをしたくない人間によるポジショントークでした。
評価されることが恥ずかしい
人から評価されることって恥ずかしくないですか?
僕は恥ずかしいと思ってしまうタイプです。それがポジティブであれ、ネガティブであれ、昔から恥ずかしいと感じていました。
あるコミュニティ、ないしは枠組みやルールの中で「君はこういう人だよね」というレッテルを貼られることが「評価」だと考えているのですが、こうして評価されるときに自分が思っていた通りに評価を受けると、"自分はこうである"と思われたい自分を周囲に発信していた、さらに言えば自分の考えが見透かされていたような感覚になり、恥ずかしいと感じます。
また、そうではなくて、自分が思ってもみなかった評価を受ける際はネガティブな要素を含むことがあり、ネガティブ要素(卑屈、器が小さい、etc...)は大抵恥ずかしいものです。情けないに近いかもしれません。
同様の評価を受ける際に、ポジティブな場合もあるでしょう。その際も誇らしいと思うより、不意打ちを受けたバツの悪さのようなものが先行するので結局恥ずかしく思ってしまうんですよね。
恥ずかしいという感情は、そこで思考停止してしまうものだとも思っています。
例えば、評価されて嬉しいや悔しいという感情を持つのであれば、前者はもっと評価されたいから頑張りますし、後者はうまくいくためにはどうするか?ということを考えるので、次の行動を起こせる感情です。
一方で恥ずかしいは、思考の無限ループに陥りやすく(黒歴史なんかはわかりやすいです)、あまり発展性がない感情だと思います。恥ずかしいと感じたきっかけがネガティブ要素であれば、もうこれ以上恥ずかしい思いをしたくない、と改善の意志を持つこともあると思います。しかし自分が思った通りの評価であったり、ポジティブ評価であった場合は、改善ではなく維持を意識し、結果として次のアクションを考えることなくそのまま終わるということになります。
なので、不意打ちで〇〇はこういうやつだよな〜と評価を下されるときは、あんまりいい感覚はないんですよね。いわゆる自己肯定感が低い、という話にもつながりそうな気がしますが、そこまでは考察しきれていないのでその話はまた次回。
カード決済はどうしたら主役になれるのか?
日本は現金に対する信頼がすごく厚くて、それを証明するかのように20歳超えてるのにカードを1枚も持っていない、なんて人が身近にいました。別にどんな手段で決済しようと、それは個人の好みであり、とやかく言う筋合いはもちろんありませんがもう少し気軽にカード決済する世の中になってもいいんじゃないか?といつも思っています。
僕は基本的にカード決済をメインにしています。かれこれこの生活にしてから2年近く経ちます。2年前、僕の周りでカード決済をメインにしている人はほとんどいませんでした。1人だけカードや電子マネーをフル活用している友達がいましたが、本当に彼ぐらいでした。
今回はカードを使うべき!と鼻息荒く提言するのではなく、「こんなに便利だよ」ということやメリットを淡々と書いていきます。今後もカード決済や電子マネー決済についての記事を書いていくつもりなので、今回はこれにとどめてサクッと終わらせようと思います。。
カード決済のいいところ
①一定期間でいくら使ったのか正確に知ることができる
②カードを使うことでグレードが上がり、得する場面も増える
③お金を下ろすためにATMを探すという手間がなくなる
④コンパクトな財布でも問題なく、かさばらなくて済む
⑤現金が足りなくて買えない、ということが起きない
⑥お釣りをいくらにするために〜というような思考を必要としないのでストレスがない
ざっと書いてみましたが、①と②が一番わかりやすいと思います。
①はレシートをいちいち家計簿アプリに入力しなくても、履歴がきちんと残っているので意識しなくても管理がなされ、レシートをもらい忘れ記憶に頼って入力するよりよっぽど正確です。
また、意外とわかっていないのかなと感じることが、カードを使おうが現金を使おうが一ヶ月に使っている金額の総量は変わらないことです。
カードはどれくらい使っているかわからなくて怖い、という人もいますが、そういう人は仮に現金しか使っていなくても金額を気にしていない場合が多いと思います。使途不明のお金があるくらいなら、確実に何に使ったかわかるカードや電子マネーのほうがよっぽど理にかなっていると思います。
お金に気を遣っている人ほど、カード決済が向いているはずです。
ざっくりメリットを書いていきました。
次回はもう少し掘り下げてカード決済について書いていきます!
大企業がスタートアップに負ける理由
経営陣と現場の考えていることが100%合致して行動していないから。
これに尽きると思います。
僕はいま大企業に勤めているので、大企業の中の人間として、そう思った理由を書いていきます。
お互い考えていることがわからない
大企業の定義が何なのだそもそも、という話は一旦置いておきたいのですが、とりあえず従業員数1000名を超える企業とします。
この規模になると、おそらく経営陣は全従業員の顔と名前が一致することはなく、それは従業員側も同様だと思います。社長はわかっても1/5人の取締役はわからない、みたいな。経営陣はより上段の議論をし、現場は日々の数字、KPIの達成に向けて動いていきます。方向性は同じでも細かな部分の思想は同じではないため、結果は出てもどこか一体感がないように感じてしまいます。
思想を同じにしないといけない、というわけではありません。ただ集団でやる以上、個人を取り巻く環境は行動・思考に影響を大きく与えるので、細かなノイズは無いに越したことがないのも事実なのだと思います。したがって、経営陣の目の届く範囲にいる人々が情熱を持ち、同じ方向を向いて仕事をするほうがはるかに突き抜けた結果を残せるのだと感じています。
ウチに閉じこもりがちな大企業の人間
会社に入って思ったことが、会社以外にコミュニティを持っている人って案外少ないんだなということです。
社内の人間と仲良くすることは、仕事を円滑に進めるために有効な方法のひとつだと思いますが、休日までそのコミュニティに属していたら名実ともに会社に属することになります。多様な人間がいることは否定しませんが、一方で似たような価値観の人間が集まっているのが会社でもあり、そうなると必然的に視野が狭くなります。もちろん、社外のコミュニティも往々にして似た価値観を持った人々の集まりですが、共通文脈が「会社」しかない集まりよりもっと広がった文脈を持っている社外コミュニティのほうが得られるものはあると思っています。
その点、社外コミュニティとのつながりをかなり重視するスタートアップでは、情報量や真に重要な学びを得やすいなぁと気づきました。
まとめると
それぞれの思考は違うくせに無理やり仲間であることを確認しまくるのが、大企業の人間の特徴ではと考えています。
仲間であることを確認しまくることの弊害は、その会社の基準(=是とされていること)に合わせようと無意識に頭を使ってしまうことです。これをやり始めると、会社から評価されないこと、されにくいことは意味がないのでやらず、結果としていま流行りの「イノベーティブ人材」なるものが社内にいないということになるのです。
経営陣は現状と理想のギャップを埋めるために方向性を提示しますが、現場ではそれが更に細かい指標や方針になって降りてくるため、ときとしてニュアンスが微妙に異なることもあると思います(伝言ゲームみたいなもので)。こうなると、経営陣の考えていることと現場の考えていることに乖離が起き、全体のバランスを取ることが困難になり一極集中的にマーケットを攻めるスタートアップに負けることになるのです。
前述したことに絡めるなら、経営陣の考えている評価軸とそれに対する現場の考える評価軸に違いが生まれることにより、手段と目的の履き違えが発生してしまうなどという悲劇が起きてしまいます。
まさに企業の雰囲気が180度違うことが、大企業の負ける理由の一番大きな理由なのかもしれません。