No Reply

とりあえず書きたいことを。

「これ地毛なんですよ」と答えることにいい加減飽きてきた

僕は地毛が茶髪です。しかもけっこう明るい。「自分あるある」なのが、洋服屋で姿見を見るとガンガンに照らしてくる明かりのせいで、自分でも驚くほどに茶髪だと認識する瞬間です。普段過ごしていると、あまりにもこの色が自然過ぎて茶髪であることを忘れるというか。自分の中の茶色の想定を超えてくるほどに明るいときがあって、これは初対面の人に驚かれても仕方ないなぁと思っていました。

これまで地毛が茶髪であることで、重大な不利益を被ったことは無いのですが、もしかしたら知らないうちにマイナスになっていたのかもしれません。これまで、事あるごとに「それ地毛なの?」と聞かれることは多くあり、そのたびに何故か申し訳なさそうにそうなんですよと答えていました。大学に入ったぐらいから、他人からの評価は気にしないように生きてきたのですが、カミングアウトするときの謎の後ろめたさはひょっとすると他人からの評価に怯えていたためかもしれません。恥ずかしいであったり、嫌だと思うことは一度も無いのですが、これはダメなことなんだなとなんとなく思うことはあって。悲しさとも恥ずかしさとも似つかない感情は、これまで幾度となく掛けられた質問がきっかけになって溢れてきました。

社会に出て、一応職業は営業としてお客様と対峙して、いわば自分がその会社の顔となっているいま現在、「それ地毛なの?」という質問は一層重くのしかかってきて、毎度毎度答えることも面倒なうえに嫌気が差してきました。

どうしてこんなに聞かれるのだろう?と小学生みたいな疑問を持っていたのですが、結論はステレオタイプって怖いなということでした。いきなり論理飛躍があったので、説明していきます。

人間は他人を意味有るもの(先輩、友人など)として認識したいとき、自分が分類しようとしている項目の想定物を考えながら、コミュニケーションを取ったり情報を収集するのだと考えました。例えば、あなたに甥がいたとします。今回会うのが初めてで、彼は小学生であるという情報以外は何も知らないとします。この状況で多少仲良くなろうと思ったら、オープン・クエスチョンから段々と人物像の輪郭を掴んでいって、「こういう子なんだ」という認識をするはずです。このとき、通っている習い事がフィギュアスケートでその傍らで日能研に通いながら家では小説を書いています、といった情報が得られたとしてもこっちが想像している小学生像とはあまりにもかけ離れていて、なんか凄い子という認識しかできないと思います。つまり、自分が分類しようとした「小学生」には当てはまらなかったのですが、こういう予想を超えてきたとき、自分の持っていたステレオタイプに相手が当てはまらなかったとき、人間は違和感を覚えるのです。

違和感を覚えると、言葉の端々や表情、態度などが変わり受け手はそれを敏感に察知します。その違和感を悪いものだと受け取ってしまい、相手のステレオタイプに合わせなくちゃという強迫観念が生まれることで、冒頭に感じていた謎の後ろめたさが発生するのです。

したがって、これは地毛です、と答えることは相手にとって想定外であって、僕はステレオタイプではないということになり、異質なものと認識されるケースが多々あるんだと感じました。

サラリーマンで、営業で、茶髪のやつは普通いなくて。みんなの普通を裏切っているから質問をされるのであって。見た目はたしかに大事だし、印象や容姿はコミュニケーションの円滑さを左右する重要な要素です。あまりにも外れた様子でなければ、それは黙って許容する意識があるべきだと思います。容姿のアリ・ナシ話になると、だいぶこじれるのでやめますが、これだけは言いたいことは茶髪がダメというのであれば、白髪はどうなんだ?と思いますし、もっと言えば髪の毛について言及することは肌の色や身長の高低なんかと同じくくりだと思っています。営業なのに肌が黒い(=黒人)のはよくないんじゃない?とは言わないですし、お前は身長が高いからお客様ウケがいい、とかいう意味分からないことは言わないはずです。なので、思考・認識の物差しにもっと余裕をもたせ、営業ならピシッとしろ!(これが大事なのは分かった上です)のような曖昧なステレオタイプは、取っ払ったほうがグローバル社会を生きるにあたっても大事なことなのではないかと思います。見た目が全然違う人なんてザラですし。

以上、黒染めをしたくない人間によるポジショントークでした。