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とりあえず書きたいことを。

肯定感について

 自己肯定感という単語を、社会に出たあたりから目にするようになった。

それはもしかすると、Twitterでフォローしている有名アカウントが、似たようなことをつぶやいていたからなのかもしれない。

ひとつ確かなことは、僕の情報源のほとんどがSNSになったと同時に目にするようになったということである。

このジココウテイカンという言葉の定義をきちんと調べたわけではないので、じつは認識に誤りがあるかもしれない。自分で解釈している意味は、「自分のことをどれだけ認めてあげるか」ということ。以下、この解釈でこの言葉について思っていることを書くことにする。

 

 思い返すと、褒められた記憶がほとんどない。おそらくは褒められた記憶よりも、怒られたり悲しかったりというショックな記憶のほうが、印象深いのだろう。ただ、それを差し引いても自分のやったことを褒められるより、あるべきを教えられその通りに行動することが正とされた環境だったと思う(これは決して、過去受けてきた教育等々を批判したいわけではない)。

 褒められることがないと、自分を認めてあげることが難しくなる。

なぜなら、自分で自分の良いところを探し出すための判断軸を持っていないからだ。

自己肯定感を持ちやすい人と持ちにくい人の差は、ここに出ると思う。

つまり、自分で考えて行動したことを褒めてもらう経験は、少しずつ自信を育み、生きていくにあたっての判断軸や、次何かに挑戦しようとする気持ちを生み出す源泉となる。褒めてもらう経験それ自体が、小さな成功体験の積み重ねと言える。自分の存在はプラスなんだと思えることができるし、いい意味でプライドができる。このプライドは、自分はこうであるという存在意義に近いもので、プライドがあるということは自分のことを一定程度「認めている」ことに他ならない。

 

 自分を認める、自分の良いところを探し出すことができる、というのはそれだけで立派な才能である。不確実性が高く、大変なことやつらいことも多い人生において、これができると自分の存在意義を見出しやすくなる。

「ここは自分の良いところ(=強み)だから、こうやって活かしてみよう。うまくいかないところを克服したら、自分の成長につながるんだ」などといった悪いところばかりに目を向けすぎず、精神衛生上健全に物事を捉えやすくなる。

 

 常に不安なのは、自己肯定感が低いからではないかと最近思い始めた。

ここで感じている不安は、9割9分が未来の不確実性に起因するものであるから、考えても仕方がないことだとも重々承知している。

だからこそ、自分を認め信じてあげること(自己肯定感)が上手いとこういった不安も軽減されるのだと思う。

なぜなら自分の座標と今後のベクトルが、正しいどうかともかく信じることができているから。

 

 宗教ではないが、信じる者は救われるという言葉はあながち間違いじゃない。信じられるものがなくなると、もしくはもっていないと、人間はすぐに立ち位置を見失う。自分の位置がわからないとやはり不安になる。信じる対象を自分ではない他に置くことは、少々危険だ。いつなくなるか、変わってしまうか、わからないからだ。

それであれば自分を信じること、そのとっかかりとして自分を認めること、客観的に見つめ直すことが一周回って大切なのかもしれない。

 

 少しずつ、認めてあげる練習を始めよう。