もう夏が終わる
もう夏が終わる
どこか浮き足立ったお盆が、風物詩ともいえる渋滞情報と共に過ぎ去り、気づけば8月も残り約1週間となった。
物心ついてから、正確には小学校に通い始めたぐらいから、夏休みの時間の流れは一定ではないなと感じていた。
夏休み初期(7月後半)は時間の流れはゆっくりで、8月1週目から少しずつペースが上がり、甲子園がいつの間にか始まり少し目を話した隙に決勝を迎えている。ここまでくると夏休みは折り返しを過ぎていて、あっという間に9月1日がやってくる。
今年から社会に出たことで、これまでのように長い夏休みを取ることは無理になったのだけれど、8月中旬から下旬にかけてのスピード感の変わらなさには若干戸惑った。
「夏らしいことをしなくちゃ」という使命感は、もともと強くないのだけれど、今年は少しそういう気持ちがあった。とはいっても、派手にプールで騒ぐとか、海で調子こくとか、そういったことは一切やらずただ夏を感じたいという気持ちが強かった。
家でぐだぐだしていることがもったいないと考え、用事もないのにフラフラ外に出ることが増えた背景には、「あっという間に終わる」という事実と感覚を鈍らせるためなのかもしれない。
今年はリオ五輪があったおかげで、テレビの前に張り付こうと思えばいくらでも張り付ける年だった。
ただし、一方で甲子園の注目度は例年に比べて低かったと思う。
甲子園やオリンピックというコンテンツは、いくらでも時間が潰せるキラーコンテンツであって、それらを堪能していると夏は終わってしまうのだ。
厄介なことにこれらコンテンツが終わると、当事者でもないのに喪失感が大きく、そのうえ個人の思い出には残らない。なぜなら均一化したあくまで情報であるからだ。
なので、動いておけば何か起こり思い出として成立することがあるのでは?という一種の焦りがフラフラ出かけてしまう理由であろう。
今年の甲子園も皆一様に頑張ってはいたのだけれど、メダルというわかりやすい指標があるオリンピックに比べてしまうと見劣りしてしまうことは否めない。4年に一度というプレミアム感もある。
今年の夏のペースメーカーは、甲子園ではなくオリンピックだったのだ。
なので新しい環境下での夏休みというイベントだったが、その非日常感が甲子園の数倍も高く、心休まる時間も無いまま結果としてペースを乱されてしまい、このことが夏休みの時間の流れの速さは特徴的だという話の基本となればそれっぽく聞こえる。
来年以降もきっとすぐに夏は終わってしまうのだろう。
早かったなぁと思いながら。
イエスマン
まただいぶ久しぶりの記事になってしまいました。
今回は自分の癖について。
なおしたくてもなおせない
「癖」って、あまり良いときに使われる言葉じゃないですよね。
辞書を引いてもマイナスなニュアンスが含まれているので、
この感覚は間違いではないようです。
僕の考える「癖」は、
- 自覚のあるもの
- ないもの
- 忘れているもの
この3つに大体分けられるのかなと。
1はそれが嫌なら変えればいいし、2は何かのきっかけで認識させられるので、
嫌なら変えようとすればいい。
でも3はけっこう厄介です。
つまり、自覚はあるけどそれを直す気があまりない(=直す必要を感じていない)ので、
ひとたびそれを指摘されるとどうしたらいいのかさっぱりになってしまうんです。
なぜならこれまで対策を考えたことがないからです。
痛いところを突かれた……的な感覚です。
わからないものをわからないと言えない
僕は初めて聞いたことを"なんとなく"理解して、そのままにする癖があります。
表現が難しいんですが、字義通りに受け取るといいますか、
いったん、それをそのままに受け入れてみるということを無意識にやってしまうんですね。
昔から疑問を持つこと、「なんで?」と思うことがあんまり無く、
目の前の情報の塊を暴飲暴食するのが昔からのスタイルでした。
そこに目的は特になくて、活字やディスプレイに映る文字を
"読んでいる"という感覚が好きなんです。最近気づきました。
ランニングが好き、筋トレが好き、などとあまり変わらないのかな?
と勝手に同一視しています。
今日改めて自分はそういう癖があるということを思い知らされました。
パッと聞いて、それに対して「なんで?」とか「ここがわからん」と
はっきり的確に質問する力が壊滅的でして。
ちゃんとまじめに考えろよ!と言われたらそこまでなのかもしれませんが、
しっかり理解しようと頑張っています。
自分の範疇を越えたものを、音声で理解する力がひょっとすると著しく低いのかな?とも思ったりします。英語のリスニングは病気レベルで聞き取れないですし。
わからないものをわからないと言えない、は正確ではなくて、
正しくはいま聞いていることは理解できているのか、理解できていないのか
ここの判断が一瞬でついていないため、要領が悪くその場で解決できないことに繋がっているように思いました。
イメージとしては、ダンボール箱とその中に入っているみかんの存在は認識しているけど、そのダンボール箱に何が書かれていてみかんは甘いのかどうか、こういった本質的なところを理解し判断することができていません。
そこまで一瞬で判断できるようにするのは少し違うかもしれませんが。
最後に
100%興味関心がないと、捉えかたを変えることができないのだとしたら
この先むちゃくちゃ生きにくい気がします。
仮に興味がないんだとしても、一生懸命考えたらその分だけ何かしら答えが出てきて欲しいものです。
ここまでこだわりなく漫然と生きてきたツケですね。
右脳と左脳のバランスがすこぶる悪い僕の脳が、少しでもバランスがよくなることを祈りながら床に着きたいと思います。
Facebookに人生を感じた話
Facebookって"いいこと"しか共有されないじゃないですか。
友達と遊んだ話、感謝の話、ライフイベントの話。
基本的に不幸なことはフィードに表示されなくて。
不自然ではあるけどあまり不快感はない空間がFacebook独特の世界観。
今回感じたものは幸せ系の話がきっかけでした。
小学校卒業以来、会ったことも気にかけたこともなかった友人から先日友達申請がきました。
申請が来たことに少し戸惑いながらも特に利害関係もないしな、と思いながら承認。
承認したことも忘れていた今日、たまたまフィードを眺めているとその人の投稿が流れてきました。
子供が生まれて何ヶ月かの記念です、という旨の投稿だったのですが、驚いたことに配偶者が外国人の方!
さすがに予想の範囲を突き抜けすぎててぶっ飛びました。
ここで驚きポイントを整理すると、
①子供がいること
②結婚相手が外国人
③英語での投稿もしてる
この3点です。
いったい小学校卒業以来、どんな人生を送ってきたのか想像することが難しかったです。
この出来事で改めて一人ひとりに人生があるんだということに気づいたんですよね。
当たり前のように知らない人生がごまんとあって、ほとんどが自分を通り過ぎていってしまう。
こいつ面白いなーっていう人生を送れるよう頑張ります。
日本の人口が減ることでコミュニケーションのありかたが変わるかもしれない
こんにちは。syokenです。
突然ですが、僕は英語が話せません。
正確に言うと、日本語しか話せません。
日本に住んで生活するぶんには全く不自由しないですが、
一方で海外に行くとこれがけっこう困ります。
当たり前だろ!という話ですが、
今回は少し視点を変えて、もしかしたら将来日本にいながら言語に困るということが起きるのでは????
と思ったので記事を書いておくことにしました。
人口が減る=話者が減る
日本の人口は今後どんどん減っていくそうです。
「日本 人口」と雑にGoogle検索してみるだけでも、
年々数が減っていることがわかるグラフが出てきたり、
2050年には人口が9000万人を割るなんていう推計も出てるそうです。
これまでは「人口が減って日本ヤバイ!」みたいな話を聞いても、あまりピンときていなかったのが正直なところでした。
でもある日ふと、人口が減るってことは単純に考えるとその言語を話す人間が減るってことで、そうなると日本語しか話せない人間は生き方が制限されてくるんじゃないか?と思ったわけです。
日本語消滅…?
言語は話す人、伝える人がいなくなれば使われることはなくなります。
ある少数民族が話す言葉には、書き言葉が無いためにその民族が絶えてしまう瞬間がその言語が死ぬときなのだ、ということも聞いたことがあります。
実際になくなってしまった言語もあります。
日本語が絶滅してしまうことは、さすがに無いだろうとは思いますが、
日本語を使える人が減ってしまうとコミュニケーションに困る場面が増えるということになるとは思います。
国内でできることはだんだんと少なくなり、ビジネスにおいてはますます諸外国と関わり、海外に進出していかないとお金を稼ぐことが難しくなるのではないかと思います。
となると一緒に仕事をする人は日本語を話さない・話せないことが普通になるでしょう。
仕事をしている人が人口の過半を占めるということを考えれば、
仕事で日本語を使う機会が減る=日本語がなくなる
ということになるはずです。
じゃあどうやってコミュニケーションとるの?
基本的には日本語が通じる一方で、ゆるやかにその「輪」が小さくなります。
同時にテクノロジーの発展により、言語の壁はどんどん低くなり、誰とでも簡単にコミュニケーションが取れるようになる、そんな世界になるのではないでしょうか。
例えば、脳とデバイスを直接接続することが可能になれば音に頼るコミュニケーションは姿を消してしまうのではないだろうか。
イメージ的には会話は常にLINEのようなチャット形式で、テキストベースのやり取りになるという感じです。
このテキストも翻訳機能が飛躍的に改善されることで、受け手に合ったカタチで受信できるようになります。
ここまできたら、日本語や英語といった言語の境目がなくなり、全ての人間が共通の言語で会話する非常にフラットで中立的な世の中に変化することでしょう。
コミュニケーションコストもかなり低くなるはずです。
とは言っても
ここまでSFな世界になるのは、さすがに生きている間にはないだろうと思います。
そもそも言語がなくなることは文化の大半も失われてしまうことになるため、
学者の方々やそれに耐えられない一般人が抵抗するはずです。
僕自身もテクノロジーの発展に興味がある一方で、コミュニケーションや言語が大きく変容していくことには抵抗感を覚えるほうですし。
ひょっとすると、いまの時代に車を所有すること同様に、言語を学び文化に触れることは必需のものから趣味のものへと変わっていくのかもしれませんね。
いや、もうそうなりつつあるか…
うららかな春の日差しを受けて
タイトル文は僕の出身中学校の卒業式で行われる「呼びかけ」の一フレーズです。
こんにちは。syokenです。
コツコツ書き続けると宣言したこのブログですが、1記事も書かないうちに3月が終わってしまいました。
もっとマメに文章を書く癖をつけます。
4月こそ頑張ります!
さて、3月といえば別れの季節ですね。
僕もこのたび晴れて大学を卒業できました。
高校では先輩・後輩という関係性とは無縁の生活を送っていたので、
今回は人生で初めて先輩や後輩が送り出してくれた卒業式でした。
小学校や中学校のそれはどうなんだ?というと、義務感のある「式典」だと思わざるをえません。予行練習とか死ぬほどやりますし。どうしても感動が薄れてしまうんですよね。
ダラダラとした思い出語りはここではやめにして、ブログでは大学生活で得られた学びをまとめておきます。
きちんとした振り返りではありませんが、こういうのは旬が大事なので少々無理やり書くことにします。
大学生活で得られたもの3つ
3つにした理由は、「世の中のものごとを説明するときは3つのポイントに分けるとちょうどいい」という何がちょうどいいのかさっぱりわからない、音に聞くプレゼンの極意(?)が頭の片隅に残っていたからです。
言い換えると理由はないということです。
さっそく1つ目ですが、「自分は何者でもない」という気付きです。
いきなり意識高い系のようなことを口走ってしまいました。
胃もたれしないうちに先を急ぎましょう。
僕は厨二病なので「自分は特殊な才能を持っているに違いない…!」とか、「いまはサクセス・ストーリーの途中だから(キリッ」とか非常に恥ずかしいことを考えたりします。
しかし妄想と現実の違いは非情なもので、特殊な才能を発揮したことや初めから要領よく結果を出した、なんてことは一度もありませんでした。
こうも初めからうまくいったことがないとメンタルにくるものですが、
自分はそういう者だと受け入れ、できることを1つずつ着実に増やしていこうと考えられるようになりました。
二つ目は、機会を逃さないことです。
たとえば、「今度飲み行こー!」と言っておきながら行けなかった。
あるいはもっと一緒に遊びたかったのに、なんだかんだできなかった。
こうしたことが、4年間を振り返ると結構あるなぁと思いました。
一度しかできなかったことは、そのときその場にいなかったら起こり得なかったということです。
時間とお金の制約がある以上、全てのイベントに参加することは不可能ですが、やらない後悔ほどしょうもないことはありません。
後回しにせず、いまできることはいまやる、こうした姿勢を忘れないようにしたいものです。
最後は、自らで考える癖をつけるということです。
当たり前すぎてあえて書くことに多少の恥ずかしささえあります。
僕はこれまで自分で考えて意思決定をする、言い換えればロジカルシンキングが非常に苦手で実践しようともしていませんでした。
ものごとの因果関係をとらえ、これはどういう仕組みなんだろうか?と考えることはこの先誰も助けてくれない社会を生き抜くために必要な力です。
何事も結局そうなのだと思うのですが、最後に頼りになるのは自分の身ひとつだけ、もっといえば脳みそだけです。
体が貧弱なぶん、脳みその筋トレは怠らないようにします。
最後に
これら3つの得られたものをあげました。
得たものというよりは、得た考え方ですね。
何か「モノ」を得たという話ではありませんし。
また時間があればしっかり振り返りたいと思います!
ひとまずこれらを胸に今月から頑張ります!