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とりあえず書きたいことを。

異動えんとりー

 退職エントリーはよく見るけど異動エントリーってあるのかな?

無いなら書いてみるか!と思い、書く。内容は入社後1年半の振り返りになる。

 

 9月29日で現職の役目を終え、10月より新しい部署へ異動することになった。

正確には引き継ぎ期間があるため10月2日からいきなり、ということではなく。

来週も同じ場所に出勤するけれど、もう居場所は無いので宙ぶらりんな感覚である。

 

 この1年半はつらい日々だった。

会社に行きたかった日はなく、いつもお腹が痛かった。

自分がやっていることの意義を見つけられず、みんなできることができなかった。

できるようになりたいと思わなかったのでできないままだった。

お客さんとコミュニケーションを取ることが怖かった、誠実に向き合うことができなかた。

休日だけが楽しみで、平日は死んだように過ごしていた。

なんでこの会社に入ったのか、自分で選んだ結果なのに消化することができなかった。

比較する必要がない世界と比較するクセをやめられず、勝手に悩んで塞ぎ込んでいた。

辞めたいと思ったことは一度や二度ではなく、途中から数えることをやめた。

 

 2年目になり、業務にも慣れてきたことで”手なり”で出来ることが増え、ますます結果を出したいであるとか改善をしようとか、頑張ることをやめていた。

結果を出せないことを気にしていないふりをして、自分を傷つけないようにしていた。

本当は少しでもチームに、お客さんに貢献したかった。でもできなかった。

 

 たしかに志向性が違ったのかもしれない。

営業には初めから向いていなかったのかもしれない。

それでも、そんな自分にも少しでも働きやすいよう、

もっとできるようになれるよう、いろいろと教えてくれた諸先輩方や同期に申し訳ない気持ちでいっぱいで。

ずっと異動してやる、転職してやるって考えていたけど、

何も残せず恩返しもできないままに去ることが決まると幾ばくかの後悔の念が湧いてくる。

自分にも、こんな気持ちがあったんだと今更ながらに気付かされた。

 

 何者かになりたくて、その機会をつかむために社会に出たはずなのに、

一番なりたくないダサい社会人になってしまっていた。

生まれたときから不器用で、一回教えてもらったことをすぐにできるような器用さや

効率化してやろうというような要領の良さはなかった。

だからこそ、目の前のことをひとつずつ出来るようにすることが、

一番大事だったはずなのに、頭でわかっていたはずだけど無視していた。

本当にダサい、イケてない社会人になってしまっていた。

 

 今回の異動は自分で望んだ結果だった。

上司やその上の方がかなり取り計らってくれた結果だと思っている。

もうこれ以上、ダサい姿を晒して生きられるとは思えない。

叶うなら、ここから自分が思い描いたビジネスマンになりたい。

これと決めたのだから、一度は集中して取り組んでみようと思う。

経験とスキルを積み、着実にレベルアップしていきたい。

 

 最後に、つらいことが多かったけど新卒後の配属がここで本当に良かった。

人間の難しさとコミュニケーション力の大切さ、ロジックは盤石なものではなく、

非合理的なことや感情・気持ちも大事であること、なにより、仕事の本質はここで学んだことがほぼ全てな気もしている。

もっとシステマチックに合理的にできていると信じて疑っていなかった、頭でっかちな自分には非常に大きな収穫でした。

本当にお世話になりました。

Ruby難しい

 比較的簡単とかとっつきやすいとか言われていて、たしかにちょっと書けば出力されるのでわかりやすいんだろうけど正直全然理解できていない。

具体的には、概念(?)の理解ができておらず、加えていま学んでいることがどう実際に活かされるのかがわかりづらく、どこまでいってもボヤッとしているのが歯がゆい。

何がわからないのかがわからない、という状態にまさになっていて心折れかけ。

 でも、できる人がいるということは(しかも少なくない人数)きっと自分にもできるはずと信じているものの、向き不向きという怖い言葉が常につきまとっているので久々に勉強のつらさを味わっている。

 少し前からハマり始めたRebuild.fmで「やればできる」という趣旨のことを仰っていたので、過去回聴きながら頑張ろう。

池袋

東京に住み始めて6年以上になる。

幸いにも都心に住み続けることができ、有名所はだいたい行った。

それなのに、馴染みのない街が、池袋である。

 

もっと言えば、山手線の北側なんて降りたこと無い駅もあるので

何も池袋に焦点を当てる必要はないかもしれない。

でも世の中には「新宿を中心に生活する人間」と「渋谷を中心に生活する人間」と同様に、池袋を中心に生活する人間が間違い無く存在するのだ。

そんな一大勢力を誇る池袋に馴染みがないのは、

都心に住む人間としてモグリなのではないか?

そんな仮説が頭の片隅にあった。ほんと気づかないぐらい小さいけど。

 

池袋は会社に入ってから行くことが増えた。

別に池袋に会社があるわけではなく、外出先がそこだったとか、

乗り換え駅として使うとか、そんな話だ。

今日も池袋が経由地で路線が変わるため、運賃的には池袋駅を出ても割増にならなかったので、折角なので駅周辺を少し歩いてみた。

これはサボりではなく、気分転換のためにコンビニに行く程度の道草と思って欲しい。

 

ここで池袋に対する印象を整理しておくと、

・汚い

・臭い

・人が無駄に多い

・別に面白みがない(チェーン店だらけ)

・家から遠い

ざっとこんなところだ。

 

今日もさほど期待せず、東口に向かうと

可愛らしい女子大生と、その子と語学のクラスが同じであろう

茶髪の男が目に留まり、あぁここは立教の支配下だったなと

謎のダメージを受けた。

これが何の類いのダメージかはわからない。

わからないが、たぶんかつてよく見たそして自分も多少なりとも体感していた

あの瞬間や風景を思い出したからだと思う。

テーブルにこぼしたコップの水は元に戻らないのと同様に、

あの瞬間や風景の当事者にはもうなれないんだ、という

とっくの昔にわかっていた事実で突然腹パンされた、そんな感覚だった。

 

このタイミングでこの前発見した池袋のすごいところを一個共有しておく。

河合塾池袋校?の隣がラブホ

たしかにメトロポリタン口?から近くて利便性は高いんだろうけど、

よくその場所抑えたな〜絶対授業サボって行ってるやついるだろ〜とか考えた、

その発想が陳腐すぎて泣いた。

 

というか、いきなり話の時系列飛んだうえに、これまで百億万回ぐらい気づかれているこの事象にいま気づくダサさも泣ける。

 

そんで、女子大生に腹パンされた後は適当にぶらついて、

駅に戻ってきたんですが、

駅で女性の落とした定期入れ?をバングラデシュ人みたいな男性が拾ってあげてて、

治安悪そうだけど人の心はあるんだなぁと感じた次第。

ちなみにバングラの人かどうかはわからない。

なぜなら僕はこれまでバングラデシュ出身の人に会ったことがないし、

実を言うとここでバングラデシュと表現したことに何の意味もない。

それはインドでもネパールでもフィリピンでもよかったのだけれど、

まるでマクドナルドでドリンクを選ぶときに、咄嗟にコーラと言ってしまう

あの感覚と同じだった。

それ以上でもそれ以下でもない。

 

僕にとっての池袋は刺し身のツマぐらいどうでもいい場所なんだけど、

それでもこうやってブログのネタにしているのは、

特別なアウラがあるのかもしれない。まぁ1000%ないけど。

 

途中で無意味に村上春樹風の文体にしようと思ったけど、

これがなかなか難しかったのでノーベル賞ノミネートされるだけあるなと思った。

 

夏休みの振り返り

 今年も有り難いことに一週間越えの長期休暇をもらい、会社員とは存外悪いものではないなと思えるようになったことは、社会人としての成長でしょうか。少し前は2ヶ月も休みが無いことに絶望していたことを出発点とする、意識の低いところからの比較ですが。

 今回は長期休暇を「何もせずに終える」ことへの焦りから、半ば無理やり旅行を詰め込み、結果としてほぼ自宅にいない、傍から見ればそこそこに充実している休暇にすることができました。これも付き合ってくれた友人のお陰です。

旅行に行くと自分を見つめ直す時間が増えるとは、うまく言ったもので、少し思ったことがあるので記しておきます。

 結論から述べると、大きく下記3つが今回思ったことです。

①地方の文化は都会と比べて大きく違う

②日頃から焦燥感がすごいこと

③みんな自分の人生を生きていること

それぞれの解説を。

 

 ①について。

ここでいう「地方」は、東京以外のどこか、ぐらいの広い意味です。今回は広島と京都に行きました。どちらも田舎(地方)と呼ぶには大きく、確立した都市であるものの、普段東京に慣れていると予想以上に違いを感じました。

違いとは、時間の感覚のことです。

僕自身田舎出身のため、勿論わかってはいましたが、電車の待ち時間の長さがもう耐えられるものではありませんでした…

たかだか10分程度。しかし常日頃から2分おきに電車に乗れているため、あまりに長く感じてしまい、とんでもなく時間を無駄にしてしまっている感覚に襲われる始末w

それに伴い(?)一日いちにちが長く感じられたことは、いつもと違う時間軸の中で過ごせたとき特有のリラックス効果があったように思えます(例:南国)。

 ②について。

贅沢な時間の使い方をしてしまい、インプットを増やすぞ!と夏季休暇前に思っていた理想と現実に苛まれております。気持ちの切り替えがやはり下手で、もっと振り切って遊びに専念したらよかったものを、普段からの悩みがどうにも頭から離れず、「これでいいんだっけ?」という感覚を持ってしまっていたのは良くなかったです。

去年の高知のほうが、そういう意味ではきっちり遊んでいたような。何事も切り替えが大事ですね。あと、悩みは可視化しておいて常に頭にある状態はやめようと思いました。そもそも悩む必要あるのか?ということも含めて。

 ③について。

今回は友人2名とある程度まとまった時間を過ごしたのですが、自立して生きているなぁと感じた次第です。小心者で仕事で充実していないことも起因しているのか、どこかで自分らしく生きることができていないと思っていましたが、強く再認識しました。自分の考えやペース、どうしたいのかをちゃんと思考していると思いましたし、自分はそれができていない、甘いなと。であるために、どっちつかずな若者特有の軽薄な行動や解釈に繋がってしまっていると思いました。いつまで経っても現実を受け入れられない、厨二病感がすごい。

 

最後に。総じて良い旅行でした。一方で、環境を創り上げることで、自分の行動力の無さを克服したいとも思った、そんな夏でした。

VALUは民衆に届きそうなサービス

最近、VALUが流行っている。

valu.is

 

流行っているといっても、いまはWeb界隈の人や情報感度の高い人たちがまだまだ中心だ。

でも、これは今後かなり可能性のあるメディアであり、サービスであり、そしてインフラになりえるモノだと思っている。

実際に利用したことがないのでかなり雑かつ浅い考察になるが、気づいたことを。

さらに言うとビジネス的に難しい理論もわからないので適当に。

 

金銭(貨幣)の感覚が変わる

買いたい人を見つけて、買う。

行動は非常にシンプルな一方で、購買意識という観点ではかなり革命的である。

なぜなら、カタチある何かではなく、期待を買っているからだ。

いやいや、そんなの普通でしょ?Netflixは手触り感ないけど登録してるし、期待という意味で言えば応援している選手・チームの勝ち負けがわからないスポーツ観戦だってそうだよね?と、思うかもしれない。

でもこれらと今回のVALUは微妙に違う。というのも、VALUは静的なサービスだからだ。

"期待"を買うときは、それを手に入れることで何かしらダイナミックなことが起きると思っている。

例えば、上述したNetflixであれば面白い・感動するなどの「感情の動き」、スポーツも同様に嬉しい・悲しい・楽しいという感情が大きく発露する。

だけどVALUの場合は、優待を"期待"する、値上がりを"期待"するというより、もっとテンション低く購入している。そんな気がしている。そんでもって、優待とか値上がりとかに一喜一憂している人もそんなにいないんじゃないかと思う。

つまり、元来お金を払うということは、何かしらの期待を買っていたと思うが、VALUにお金を払う人たちは投資対象者を「なんとなく支持」している、などあまり期待を寄せていないのに買っているのではないだろうか。

めちゃくちゃわかりやすく言うと、レアカードを求めて遊戯王カードを買う「購買行動」とVALUのそれは全然性質が違うよね、という話だ。

はじめからこうやって書けばよかった。

 

そうすると、お金に対する感覚が変わっていく。リアルにあるモノに固執するのではなく、「こうやってお金を使うのけっこう面白いな」という感覚に。

ビットコインでしか取引できない、というのも秀逸だ。これが円やドルなどの法定通貨だったらそうはいかない。なぜなら、通貨に対する常識(バイアス)があるのでこういう新しい形態にお金を払おうというハードルが高い。ストリーミングサービスへの課金や電子書籍の購入が、まだまだ主流じゃないことと同じだと思う。

 

メディアとしての価値がとんでもなく大きい

そもそもSNSでの影響力に応じて値が付けられることからわかるように、VALUはメディアだ。しかも個人にとっては、非常に自由度が高いうえにやりやすいメディアだと思う。そもそも、VALUを購入されている状態は、SNSのフォロワー数やリアルでの信頼とは異なる種類の価値である。それはお金を払う、という一定のロイヤリティが無いとありえない行動の結果だからだ。

特定のセグメントに深くリーチでき、かつロイヤリティの高いユーザーがいるため、そこからお金が生まれる可能性が他のメディアと比べてもかなり大きいはずである。

個人の発信力を高めるとんでもないプラットフォームだと思う。

 

信用のありかたが変わる

世の決済サービスやクラウドファンディングサービスがソーシャルレンディングを手がけるように、こういったサービスはその独自の経済圏でユーザーを評価することが可能になる。そうすると、リアルとはまた違う信用を与えられることになる。小学生のときは足が速いやつが一番偉くて〜とか言われるアレと構造は同じ。別に足の速さは人の価値にとって絶対ではないけれど、相対的に見ると評価されるべきものという論理。

最近のソーシャルレンディングなどが騒がれる理由は、そのサービス内で培った信用が"お金"に変わるからというシンプルなことだと思っていて。

これまではそんな錬金術は無理だったけど、テクノロジーとアイディアのおかげでそれが可能になった。めちゃくちゃワクワクする話だなぁと思っている。

 

タップスCEOの佐藤航陽さんたしか仰っていた「将来的には人は自分で経済圏を選べる」ということが現実味を帯びてきた、その第一歩か二歩ぐらいとしてVALUは評価されるべきだと思う。それと、こういったいろいろなお金の使い方が出てくると、クラウドファンディングや投資や寄付なども相乗的に促進されるだろう。

法規制とかいろいろ大人の事情(笑)があるかもしれないけど、こういうサービスが出てくるからお金周りの話はおもしろい。

負けずに頑張ってほしいサービスです。